33.住宅相談会(前編)


 ◆


 電車の中で高校生らしき男女が椅子に座って肩を寄せ合っている。

 車内はまあまあ空いていて、少なくとも他の人が座るために詰めているというわけではない、つまりはカップルということなのだろう。

 コンタクトは外しているから彼らの心は見えないけれど、まあそれこそ見ればわかる。

 普段ならば、ああ、微笑ましいなぁ……そう思うぐらいだ。そんな二人の姿が妬ましく、憎らしい。

 彼らは何も知らないでいられる。

 いっそのこと、電車の中で思いっきり叫びだしたくなる。私の知っている何もかも、何もかも、何もかもを。そして、皆に私と同じ気分を味あわせてやるのだ。誰も信じないだろうけれど。

 私は思いっきり深呼吸をして、気持ちを落ち着かせようとする。


 とりあえずはあのおばさんの助言に従って、私はあの修行場に向かっている。

 何か対策があるとも思えないが、それでも私のこの感情を独りで抱え込むことは無理みたいだ。


 もはや、他の人を見ることすら煩わしく、私は視線を車窓に移した。

 青い空に月は見えない。そもそも月の見える方角じゃないはずだ。

 車窓から見える景色はいつか見た新幹線から見える景色よりもよっぽど誰かの日常に近い。住宅街や、道路を歩く人の姿を見ながら、私は少し泣きそうになっていた。 

 


『次は▓▓です』

 車内アナウンスが降車駅の名前を告げる。

 私以外に降りる人はいないようだ、私は伏し目がちにホームへと降りた。

 昼の太陽はその輝きで月を隠している。だからうっかり空を見上げて恐れる必要はない。そもそもコンタクトレンズは外しているから、月が見えたとしても見えすぎることもないはずだ。けれど恐ろしい。

 しかし、見てしまうことを恐れていながら、私は時折空を見上げて青い空に月が浮かんでいないことを確認している。

 おばさんの家を出て、一時間と少し。

 月を見ることを恐れながら、月がないことを見ないではいられない。自傷行為みたいな安全確認をしながら、私はこの駅までやって来た。

 

 電車を降り、黄色い点字ブロックの一歩先へ進もうとして、私の足は点字ブロックで立ち止まっている。立ち止まるべきではないとわかっているのに……ある考えが私の頭を過ぎってしまう。

 っていうか、いいんじゃないだろうか。

 誰かが悲しむというわけじゃないんだし、もう何かしら私に出来ることがあるというのならば、全てやってしまったし。むしろ、パパやママに会えるかもしれない。いや、無理かな。地獄に行くかもな。私。でも、地獄だとしてもここよりはマシかもしれない。いや、どうなんだろう。そもそも、あの世とかよくわからないしな。まあ、でも死ねばわかるか。


「……死なないんだ」

 点字ブロックの向こう側から、声がする。

 私は死を踏み越えるように、一歩前に進む。

 少しずつ私は顔を上げていく、ビーチサンダル、花柄模様の目に痛いようなショートパンツ、手首には数珠とパワーストーンとミサンガ、蛍光ピンクのアロハシャツに首からかかったロザリオやパワーストーンのネックレスにドクロ。殆ど夜と同じ色をしたサングラスに、ニット帽。下から上まで怪しさで全身をコーディネートしているこの服装……ギメイさんだ。


「死んで欲しかった感じですか?」

「いや、世界はクソだけど、まあ生きたいなら生きたほうがいいと思うよ、僕は」

「……まあ、私もそんな感じです」

 身体は勝手に生きたがっている。

 助けられたり、優しくされたり、それだけで、頭もちょっとは生きたくなるようだ。


『KUSOBOKE』という今すぐにでも消したくなるようなグラフィティアートが描かれ、平然と窓が割られているような雑居ビルの二階、部屋の窓が割られていないギメイさんの道場に上がり、私はフローリングの床に座った。元はバレエ教室か何かだったのか、相変わらず道場は壁一面が鏡に覆われていて、その鏡面のあちこちに、なんらかの呪文が描かれた御札が張られている。

 ギメイさんも私に向かい合うように胡座をかいて座っている。


「……一応は先に言っておくけど、ウチクーリングオフはやってないからね。法律がなんと言おうと貰った金は返したくないんだよね」

「大丈夫です、とりあえずは」

 コンタクトレンズと一緒に自分が見てしまったものも引き取ってくれるというのならば、お金を払ってでも返したいぐらいだけれど。


「じゃあ、修行?」

「私、月を見ました」

 私はギメイさんの言葉を無視して言った。

 こちらは百三十五万円払っているのだ、出来れば早めに本題に入りたい。


「そりゃ僕だって見るさ」

「月は事故物件だったんですね」

「……うん」

 諦めたようにギメイさんが頷く。

 そもそも修行前にギメイさん自身が言っていたのだ、絶望を見ることになると。

 私が来た目的など気づいているか見えているんだから、最初から本題に入れば良いのに。


「いや、まあ……わかるよ、わかるけどさ。ただ、がっかりしちゃうからね」

「がっかり……ですか」

「月は超巨大な事故物件でした、それに気づいてしまった受講者の殆どが僕に聞いてくる『どうすれば良いんでしょう?』僕は頭の中で。『それを聞きたいのはこっちだよ』と思いながらその質問に答える『とりあえず借金でもして死ぬまで遊んで暮せばいいんじゃない?』」

 ギメイさんの顔にはサングラスでも隠しようのないほどに諦念の色が浮かんでいる。


「アンタはかなりマシな人間だよ、コンタクトレンズを買った人間の中ではめちゃくちゃ頑張ってる方。多少は追い詰められているけど、それでも日常を維持しようという気力がある。でも……それだけだ。僕はさ、ずっと探してるんだよね。『あの月ムカつくんで除霊するんですけど、ちょっと手伝ってくれません?』とか『あとは月に行く手段だけなんですけど、なんとかなりません?』とか、そういう言葉を言ってくれる受講者を……いや、わかってるよ。アンタは言えない」

「……はい」

 私が返事を返すと、ギメイさんは口元を自嘲するかのように歪めた。

「わかってんだけどね、明日から人間は不老不死になるので、もう人生に関して一切悩む必要はありません……って言われたいのと同じレベルのことだってのは。それぐらい月は絶対的なもんだからね」

 そう言って、ギメイさんは大きくため息を吐いた。


「見たよね、事故物件一級建築士。アンタも見た通り、彼らは……修行によるものかもしれないし、生まれつきそうなのかもしれない、まあ、いずれにせよ常人を遥かに超えた超人で……そんな彼らでも結局は常人と何一つ変わらない、ただ月に殺されていないだけの存在に過ぎない……まあ、シラフじゃ生きていけないよ。だからもういっそのこと月を絶対的な存在として自分なりの月……事故物件を地上に築こうとするか、あるいは月に自分の玩具を壊される前になるべく多くの玩具を自分の手で壊そうとするか、あるいはこんな救いのない世界に生まれたことへの救済として事故物件で殺しまくるか……まあ何を思おうが、出力される結果は事故物件による殺人だよ……僕やアンタはアイツらよりマシ……と思いたいけど、もしかしたら、ヤケになって大暴れする彼らのほうが、自殺の次にまともなのかもしれないね」

「……アレがまともだって言うなら、私はまともな人間じゃなくて結構です」

「僕もそう思いたいね」

 そう言って、ギメイさんが苦笑して、サングラスを少し下にずらして眉を掻いた。


「まあ、そういうわけで僕の方からは何もかも諦めてのほほんと暮せば良いんじゃない?としか言いようがないね。少なくとも僕に出来ることはないよ」

「慣れてしまったんですね」

「まあねぇ……」

 あ、と思い出したかのようにギメイさんは立ち上がった。

「お茶とか出してなかったね」

「そんなおかまいなく……」

「いや、僕はお茶一杯三千円とるからさ……こっちとしてはおかまいしたいよ」

「本当におかまいしないで欲しいんですけど」

「お茶菓子もあるよ、賞味期限切れの羊羹。多分……まだ食べられる奴……これは無料」

「そんなもの出さないでくださいよ」

 そう言いながら、ギメイさんは私に背を向けて部屋を出ようとする、給湯室が別の部屋にあるのだろうか、お茶一杯と多分まだ食べられる賞味期限切れの羊羹で三千円を取られちゃたまったもんじゃない、本当に。



「あの……」

 目に優しくないアロハシャツの背に呼びかけると、ギメイさんは足を止めて私の方に振り向いた。余計な金を取られる前に聞くべきことを聞かなくちゃ。


「月って……実際に何かするんですか?」

「ん?」

「彼らは私を見ているだけで、いつでも殺すことが出来るけれど、実際には何もしない……それなら、ちょっとはマシな気がするんですよ……」

 常にライオンの口の中にいるだとか、常に誰かにナイフを首筋に突きつけられているとか、そういう人生でまともに生きられるとは思えない……思えないけれど、それでも、実際には何も起こらないというのなら……それなら、ちょっとはマシに生きることが出来そうだし、ギメイさんのように慣れることが出来るだろう。

 勿論、そんなことを期待できそうにはないけれど。


「そろそろ来るよ、アイツら。人類を完殺するために」

「えっ……?」

 胸を突き破るんじゃないかってぐらいに心臓が跳ね上がった。


「具体的にはわからない、もしかしたら案外百年後ぐらいのことかもしれないし、あるいは明日来るのかもしれない……でも、間違いなく来るよ。僕には視えてる」


 ギメイさんの口は真一文字に結ばれている。

 感情を押し殺すためにそうしているのだろうけれど……私にはわかる。

 私だって、そうだ。

 恐ろしくてたまらなくて、そして何も知らない人間が妬ましく、そして憎らしい。

 私が電車の中で思ったものと同じ感情だ。

 助けて欲しい……きっとギメイさんはそう思っているのと同じぐらいに、自分と同じ思いをする人間が増えてほしいのだろう。


「金がいるんだよね、僕」

 急に何を言い出すのだろう、と思った。

 確かに、ギメイさんは間違いなく金を欲しがっているタイプだろうけれど。


「食べられるわけじゃない、着られるわけじゃない、尻を拭く紙になるわけでもない。ただ、価値があるよと国が言って、それを皆が信じているから、いろんなものと交換出来る……そして、その価値を皆が信じているから、事故物件もそれを発生させる……月だって、そういう幻想に乗っかっていてくれるんだ。アンタ、金の延べ棒を吐き出したことある?笑えるよね。」

「……笑えないですよ」

「その程度には、月は人間のことを理解して、ルールに乗っかってくれているんだ。お金をあげるよ、生活の心配はいらないから、まだまだ自殺はするなよ、って」

 西原が言っていたことだ。家は住んでもらうのが目的だから、家賃を下げ、それどころか入居者やその候補者にお金をあげる、と。


「無駄でもさ、とりあえずやっちゃうおまじないってあるよね。ジンクスっていうか……とりあえずさ、やってみるようなこと。俺はさ、とりあえず金だよ……金を集めておけば、そういう月からの利益の発生……ひいては、月が僕から少しは目を逸らしてくれるんじゃないかなって……思っちゃったんだよね」

 私が路上に蹲り、匍匐前進をしたのと同じような感じなのだろう。

 意味があるのかどうかはともかく、そうせずにはいられない……何一つ抗いようのないものをすぐそばにありながら生きていくのは辛すぎる。


「ま、やっぱり無駄だったんだけど」

 ずしん。重量感のある音がした。


「視えてるからわかっていたのにね」

 ぐじゅ、次に水分を含んだ重いものを潰す厭な音。


「ギメイさん!?」

 最早重量を測るのも馬鹿馬鹿しい……乗用車ほどの大きさがあるだろうか、それほどに巨大な金塊だった。そんな巨大な金塊に、ギメイさんが押し潰されていた。

 けばけばしい悪趣味な金色の輝きの下から、潰れたものの中にあった赤いものが少しずつ漏れ出して、じっとりと床を濡らしている。


「あ、そんな……」

 何が月の琴線に触れたのか、あるいは理由など無いのかもしれない。

 目についた誰かをたまたま殺そうと思ったのかもしれないし、あるいはそもそも殺す気すらないうっかりなのかもしれない。


「ギメイさあああああああああああああああん!!!!!!!」

「呼んだ?」

「は?」

 気がつけば、死んだはずのギメイさんが半透明になって金塊の上に座っていた。


「事故物件一級建築士の資格は無いけれど、一応やれる範囲でやっておいたんだよ。自分が死んだ瞬間に、魂をここに定着させて……この家を事故物件化する」

 そのための御札なんだよ、あれ……そう言ってギメイさんが鏡に張られた御札を指さした。


「というわけで、死の続きには辿り着いた。とりあえずは僕の魂は僕自身が支配出来ているから、まあ良いんだけど……一生ここから出られない感じなのは困ったね」

 死は絶対の終わりではない……ここ最近の出来事を見ればわかっているはずなのに、いざ目の前で死からの続きを始められると困惑があまりにも大きい。


「とりあえずは……良かったんですか?」

「どうかな、今はとりあえず意識があることに喜べてるけど、そのうち生きてる人間が憎くなるかもしれないし……そもそも幽霊になっても終わりはあるしなぁ……除霊を食らって、消滅するのか、現世から剥ぎ取られるだけなのかしらないけど……そういうのが、でも――」

 何か良いことを思いついたかのように、ギメイさんが笑った。


「『どうすれば良いんでしょう?』の答え、思いついたかもしれない」

「……本当ですか?」

 ギメイさんが金塊から飛び降りる。

 半透明の身体は床をすり抜けるということもなく、しかし音を立てるということもなく、ふわっと床に着地した。


「月だってやってんだ、どうせ人類が全滅するなら……地球を丸ごと事故物件にして、そのまんま幽霊惑星に出来ないかな」


【続く】

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