32.優しい人の家


 ◆


「夜が明けるまで、いてくれて良いから」

 マンションからほど近い距離のおそらくアパートの一階の部屋に上げてもらって、私は居間らしき場所でクッションを抱えてうずくまっている。

 クッションはくたくたになっていたけれど、何も抱かずに路上でうずくまっているよりかはだいぶマシだ。


「あんた、アレねぇ」

「……なんですか?」

「面倒くさい人間の中では結構物わかりが良い方ねぇ」

「……どういうことですか?」

「まあ、あたしもアレだから、こんな人間だから、まああんたみたいな娘を放っておけなくて、何回か話したことあるけど……普通、もうちょっと泣いたり喚いたりゲロ吐いたり、そんな感じよぉ……ただ、あんたは落ち着いているわ」

「……私、今、怖くて怖くてしょうがないんです」

「そうねぇ、何があったかはわからないし、多分あたしにはわからないジャンルだから理解も出来ないけど、そうでしょうねぇ……ただ、やっぱりねぇ……怖がってるだけじゃないのよ。自分なりにその恐怖に対して対策を取ってるし、あたしの言葉にちゃんと応じてくれてる」

「……まあ、無視とかしたら失礼じゃないですか。朝まで話しかけられても困りますし……」

「それよぉ、あんたやっぱ落ち着いているわ。強いのねぇ」

「強くなんかないですよ……」

 強ければ、何も悩まないで済むし、怯えないでも済む。

 ただ、おっかなびっくり自分に出来ることをやって……そして、このザマだ。

 興味本位で俵さんの秘密に首を突っ込んで、事故物件一級建築士に因縁をつけられることになったし、私がどれほど矮小な存在であるかを知る羽目に陥ってしまった。そして……知るべきではない俵さんの秘密を知ってしまった。最悪だ。どうしようもないほどに。こんなことならば、人の家に上がり込もうとせずに、自分の家の中で大人しくしていればよかったのだろう。

 ただ、落ち着いているというのは……そうなのかもしれない。

 本当に、本当に色々なことがあって、慣れてしまったのかもしれない。慣れたところで何も出来ないけれど。


「で、どうするのぉ?朝になったら、お家帰れる?」

「多分大丈夫だと……」

 朝になったら月は見えなくなる、見えなくなるだけで向こうはきっと私を見ているけれど……私の方から見えなければ、まだ少しはマシなはず……いや、本当にそうなんだろうか。何故、太陽の光が私をあの超巨大事故物件から守ってくれると思ったのだろう。そもそもの話をすれば、事故物件に昼も夜も無いというのに。

 そう思った瞬間、身体の深い底から酸っぱいものが込み上げてきた。

 逃げるとか、立ち向かうとか、やり過ごすとか、そういうことが出来そうにない圧倒的質量の恐怖、それを想像しただけで、熱く酸っぱいものが喉を通り、私はクッションをぐずぐずに汚してしまっていた。


「……ゲェッ、オゲェ……ウェ……ずびばぜん……グッジョン……」ごとり。

「いいのよ、クッションなんてぇ!それよりあんたよあんた!残っている分あるなら全部吐いちゃいなさい!トイレが無理なら、ここでいいから、あら……?」

「ウェェ……」

 何もかも何もかも何もかも、身体中の恐怖を吐き出すかのように私は吐き続けた。それでも、恐怖が消えることはない。ただ吐く胃液すら無くなっただけだ。身体の中にあるものは消えても、感情だけは心が無限に生み出し続ける。


「まあ、床はいいけど、口の周りとかお洋服とか、そういうところ……大丈夫?流石に……洗ったほうが良いんじゃない?」

 別に私にこびりついた吐瀉物が迷惑だから言っているわけではないのだろう。目を閉じていても、相手の優しさはわかる。

「タオルを……」

「あら」

 私は少しだけ体を起こして、タオルを受け取ると目を閉じたまま口周りを、そして衣服を拭いた。普段遣いの服装ではなく、事故物件攻略用の動きやすい服を着ていて良かった。ああ、この服はお気に入りだったのにな……なんてことは考えなくて良い。


「ちょっとマシになったのねぇ」

「いえ、全然……」

「自分がゲロまみれになっているのは良いけど、あたしに対して申し訳ないなぁと思って、身体を拭いた感じでしょう?」

「……まあ」

「強いって、そう言うもんよぉ」

「そんなものですかね……?」

「自分がめちゃくちゃになっても、周囲に気を配れてしまう……ま、苦労する生き方だと思うし、もうちょっとワガママになっても良いと思うけど……めちゃくちゃ強いと思うわよ、あたしは」

「でも、そういうことを言われると気が引けちゃうんですよね。私、本当に強い人を知っているので……つらい過去があっても、私みたいな状況になっても、顔を上げて前を向いて戦える人……」

「あんただって戦ってるじゃない……」

「でも、私はあの人みたいにタワーマンションの大きさをしたロボットと殴り合ったり出来ませんから……」

「比較対象が強すぎないかしら?」

 それはそうだ。


「まあ、でもアレねぇ……なんか、あんたの悩みってアレ、あたしが具体的に聞いても相談に乗ってあげられそうには……」

「そうですね……すみません……」

「いいのよぉ、あたしが余計な首突っ込んでるだけなんだから……でも、アレよ。一生、独りで抱え込むっていうのも辛いわよ?誰か相談出来る人っていうのはいないのかしら?」

 月にまで乗り込んで片っ端から悪霊たちを倒して回る俵さんの姿を思い浮かべようとして……出来なかった。実際の俵さんはきっと無敵なんだろう、きっと、そうなんだ……でも、私がその俵さんの強さを信じることが出来ない。

 そもそも連絡のしようがない。

 ならば、後は……

「こういうことに詳しい知り合いは……」

「あら、いるのねぇ」

「私の命を狙っているストーカーか、結局百三十五万円払うことになった人ぐらいですかね……」

「まず、警察に相談するべきなんじゃない!?」

 それはまあ、そうなんだけれど……警察に相談して解決する問題じゃない。


「お節介だけどねぇ、あたし警察の方に……っていうかパトカーに送り迎えとかさせられないの!?あんたの税金をガソリンと人件費に変える時が来たのよ!あと後者との縁は切りなさい!」

「いや、もう……ストーカーの方は収監されていますし、百三十五万円の方は車とか売ってもらったんで……」

 もちろん、嘘だ。

 西原は未だに姿を見せていないが、おそらくは厭な形で再会することになるだろうし、ギメイさんから買ったのは車ではなく、コンタクトのセットと塩と聖水だ。塩と聖水に私は七万を支払った。


 ただ、おばさんは真剣に私のために怒っているようで、こういう時は嘘でも納得して貰わないと、社会的に正しいことをする。

「あ、あらそう……でも、人聞きヤバいわよ?かなり」

「はい……」

「ただ、まあ、アレね……百万も買い物したなら、ちょっとは相手にわがまま言って良いと思うわ、私。三人寄れば文殊の知恵だし、二人なら東大卒ぐらいには成れるわよ、きっと。それに……ほら、知恵が出なくったって路上でうずくまったり、匍匐前進したりするよりはマシよ」

「まあ、そうですね……」

「じゃあ、もうそうした方が良いわね……やることが決まったら、ちょっとはリラックス出来たんじゃない?どうせ目を瞑るならぐっすり眠っといたほうが良いわ、朝まで。明日は日曜だしねぇ」

「はい……あの」

「なあに?」

「なんか最近、理由もなく人に攻撃する人間にばっかり会ってまして……」

「……うん」

「それで、その……本当に、おばさんには感謝してるんです。その、放っておけば良いのに……家にまで上げてもらって」

「まあ、アレねえ……世の中、理由のない悪意もあれば、理由のない善意もあるものよ。だから、そんな捨てたもんじゃないと思うわ、あたし。あ、理由のない善意って……あたしは違うけどね」

「えっ」

「さっきも言ったけど、あんたみたいな娘を放っておいたらなんか嫌な気持ちになるでしょ?けど、なんか助かったぽい雰囲気になったら、ちょっと良い気分になる。自分のためよ、自分のため。ねえ?」

「……はい!」

「良し」


 私は目を閉じたまま、顔を上げ、おばさんの声がする方に微笑むと、恐怖で抑え込まれていた眠気が私の身体を包んでいく。

 嵐に蹂躙される小舟のように、ずっと自分の力ではどうしようもない絶望の中にいるけれど、とりあえず、私の身体はしっかりと眠って、しっかりと生きるつもりでいるらしい。


 目覚めると、私の前に笑みを浮かべる金髪の中年女性がいた。

「おはよう、あんた。どう、目を開けて一番に見るあたしの顔は?」

『ああ、心配してたけど、ちょっとは元気になったみたいで良かった……』

 目を開いた私におばさんの心の声が形になって飛び込んでくる。


「とっても綺麗ですよ」

 ありがたいことに、私のコンタクトレンズは嫌なものだけを見ることになるわけじゃないらしい。

「ところで――」

 おばさんがそう切り出して、懐から何かを取り出した。

 蛍光灯の明かりを受けて、キラキラと金色に輝く――金のインゴットだ。

 大きさはスマートフォンと同じぐらいだろうか、バトンを渡すかのように無造作に私に差し出している。


「これ、あんたのよね?あたし、こんな立派なの置いてたらこんな家に住んでないからねぇ」

「……いえ、どうなんでしょう」

 口では否定しながらも、私は金のインゴットを受け取った。

 表面にシリアルナンバーだとか重さだとか、そういうものの記載はない。

 ただ重量感がある――流石に光沢と重さだけで本物の金か判別出来るどうかはわからないけれど、おそらく本物なのだろう。


 慣れたくはないが、もういい加減に慣れてしまった。

 事故物件特有の、価値が低下ししすぎて逆に貰える現象。

 けれど……


「あ、ごめんね……一応ゲロまみれだから洗っちゃった、こういうのって素手で触ったり洗ったりしたら駄目な奴だったかしら」

「いえ、私も詳しくないですけど大丈夫だと思います」

 私がこの部屋で吐いた時に……この金のインゴットも吐き出した?

 そういえば、私が吐いている時に何か重いものが落ちるような音が聞こえた気がする。


「あの、この家って実はダース単位で人とか死んでたりしますか?」

「……やぁねぇ、このクソアパート人が死んでないことぐらいしか褒められたところがないわよぉ」

「……ですよね」

「元気になったのは嬉しいけど、それは普通に失礼よ」

「あ、すみません」

 今の私ならば見ればわかる、この家は事故物件じゃない。

 だったら何が原因で私は……この金のインゴットを手に入れたんだろう。

 この家は事故物件の射程圏内に入っていないはず。

「あっ……!」

「どうしたの、あんた……怯えた顔してるわよ」

 わかりきっていたことだ。

 俵さんのマンションより後に見た事故物件なんて、たった一つだけで……ただ、考えないようにしていただけ。

 月は地球の周りを公転する……地球という土地の周りを。

 月に入らなければ大丈夫なわけじゃない、月の方から攻め込んでこなければ大丈夫なわけでもない。もう私は月という超巨大事故物件の影響下にある。


【つづく】

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る