31.月が私を見ている
◆
風は吹いていない、生暖かい夜の空気をただ私の周りを取り巻いているだけだ。その存在しているだけの空気を私は吐息のように感じてしまった。
例えるなら息を荒げた獣の呼気、獲物を前にして興奮を隠すつもりもない。そんな感じだ。いや、正確に言うのならば違うのかもしれない。獣は獲物を前にしているわけじゃない、もうとっくに獲物を口の中におさめていて、いつ、その鋭い牙で噛みちぎってやろうかなと考えながら舌の上で弄んで、私は獣の口内で誰よりも近い距離で獣の息を浴びせられている……そう言うべきなのが正しい。
「きゃああああああああ!!!」
思わず悲鳴を上げたのは、気づいてしまったからだ。
私は今、たまたま生きているだけだ。
病気もせず事故もせず、異常現象に殺されることもなく、今生きていられる奇跡に感謝して……とか、そういうことじゃない。
月は事故物件だ。
一瞬で目を逸らした、私はとてもじゃないけれどあんなものは見ていられない。
子供が縮こまるように、私は道路の端でうずくまった。
少しでも小さくなりたい、月と私の距離を遠ざけたい。
私は顔を伏せて、目を閉じる。たった一瞬だけ見えた光景が何度も何度も頭の中で蘇る。どれだけ目を閉じたって瞼の裏に蘇ってくるようだ。
数えようという気にすらならない、月には大量の悪霊が蠢いていた。
そして私を……いや、私だけではない。地球にいる生き物たちの全てをずっと睨んでいて、そして私が月を見た瞬間に、彼らは一斉に目を合わせてきた。
目が二つある生き物、単眼の生き物、複眼の生き物、人間と完全に同じ姿の生物はいない、昔のオカルト雑誌で取り上げられるようなグレイ型宇宙人のような悪霊や、タコの姿をした火星人のような悪霊、図鑑で見た恐竜のような悪霊もいたし、虫と言うにはあまりにも巨大すぎる悪霊もいた。
もともとそういうものなのか、あるいはそうなってしまった悪霊なのかはわからない。ただ今はもう地球に存在しない悪霊たちが月に取り憑いていて、そして嗤っていた。
そういう笑みを私は知っている。
猫が弱った小動物を弄ぶような、いじめっ子がいじめられっ子に対して、ああ、こいつは虐めても良いんだ……と判断しているような笑み。事故物件一級建築士が浮かべていた嘲笑。全ての悪霊がそんな顔で嗤っていた。
「……あんた、大丈夫!?」
悲鳴を聞きつけて家から飛び出てきたのか、上からおばさんらしき声が降ってくる。
「何かあった?警察呼ぼうか……救急車?ああ、話したくないことなら、話さなくていいよ……ちょうどねぇ、あたし牛乳温めて飲もうと思ってたから、一緒に飲む?ちょっと落ち着くよ」
どたどたと慌てているようだけれど、優しい声。
「……放っておいて下さい」
けれど、私は顔を上げることが出来ない。
月が見えなくなるまで……こうしていなければ。
もう気づかれている、だから少しでも月との距離を離す……私にはそれしか出来ない。
冷静に考えれば大丈夫なはずなのに……いくら超巨大な事故物件だからって、月は月だ。地球とはかなりの距離がある。宇宙飛行士でもなければあの死の大地に入り込む機会はない。向こうの方から乗り込んでくることだって……出来ないはずだ。基本的に事故物件の悪霊は向こうの方から来るのを待ち受けているだけ、もしかしたら何らかの手段でこちらに来れるのかもしれないけれど……それまではまだ私を見ているだけ、大丈夫なはずだ。そもそももう見られているのだからこんな行動に意味なんてない……でも怖い。無駄だとわかっていても何かをしないではいられない。どんなに頼りないものでも恐怖を裸で受け止められるほどに私は強くはない。
「放っておけないよぉ……」
おばさんが困ったように言った。
「そりゃ、あたしにだって出来ることと出来ないことはあるしねぇ、もしあんたが悲鳴を上げるぐらいお金に困っているって言うなら、あたしだって助けてあげられないよ……宝くじとか一回も当たったことがないからねぇ……けど、でも……ほら……あんた、とりあえず助けてあげたいじゃない……放っておいたら、時々思い出して、後悔しそうじゃない、そりゃあもうおばあちゃんになっても、ねぇ?」
きっと、優しい人なんだと思う。
俵さんみたいに、どんな相手とでも戦えるってわけじゃないけれど……でも、通りすがった先に理不尽なことがあったら放っておけないような人。
「でしたら、家に隠れていて下さい……夜の間はずっと……」
そして、そういう優しさとかそういうものは全て無意味だ。
もう、タワーマンションと比べるのも馬鹿馬鹿しいほどに月は巨大だ。日本列島を丸々その中に収めてしまうような超巨大事故物件……その大きさに見合うだけの悪霊が……それこそ数えようというのが馬鹿馬鹿しくなるほどに蠢いている。
どこへ行ったって逃げようがない。
「私達はたまたま生かされてるだけなんです……」
私が言ったみたいなことを中学生の時にこういうこと言ってる男子いたな。
みんな知っていることを、さも自分だけが気づいてしまったみたいな深刻な顔で。
彼は同窓会で自分はそんなこと一度も思ったことはありませんよ、なんて能天気そうな顔でガバガバお酒を飲んでいた。
私は……無理だろうな。
「そりゃあ、あんた……人間はいつか必ず死んじゃうわよぉ、あたしもあんたもそのうちねぇ、どんだけ運が良くても結局おばあちゃんになってしわくちゃでぽっくりよぉ」
そういう話をしているわけじゃない。
けれど、本当にこのおばさんは本当に優しい人なんだな、と思った。
言葉だけの話をすれば、中学生の男子と同じレベルの話を私はしている。
それを受け止めて、返そうとしてくれている。
「まあ、とにかく……どうせ死ぬんだから、それまでは生きてるだけよぉ……ねぇ?美味しいもの食べて、お風呂に入って、ぐっすり寝てれば、それでハッピー……じゃ、駄目?」
「……無理っぽいです」
「でしょうねぇ……ただ、そんな硬くて暗いところでうずくまるぐらいなら、あたしの家でうずくまってた方がいいわよ。クッションあるし」
「……もしかして、ですけど」
「うん?」
「私、朝が来るまでここでじっと隠れているつもりなんですけど……その、お姉さんは……」
「おばさんよぉ」
「おばさんのご招待に応じなかったら……」
「まあ、気合よねぇ。夜の路上で女の子一人放って置くわけにもいかないし、あんたが来ないなら、あたしがいることになるでしょうね」
「……じゃあ」
私は丸めた身体をびろんと伸ばして、顔が地面と擦れるんじゃないかってぐらいにうつ伏せになった。
「匍匐前進になりますけど……」
「まあ、いいわよぉ。進むんならどんな形でも」
私はおばさんに手を引かれながら、地を這うように進んで行った。
アスファルトのざらついた地面が皮膚を擦る。
その姿は誰がどう見たって愚かしいものだったろうが、私は気にしない。
どうせ、皆死んでしまう。
【つづく】
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