30.俵さんのお母さんについて


 ◆


『お母さん』


 不安そうな声で耕太が私を呼んだ。

 あの人がいなくなって、家賃の安いこんな家にしか住めなかった。

 洗っても洗っても大便と小便の臭いが消えない。

 知らない誰かの足跡がある。

 ぎいぎいぎいぎい、何かがいるみたいに首を吊る音がうるさい。 

 いや、もっといい方法はあったのかな。

 わからない。

 働いたことはあるから、わかる。パートだけど。

 息子を小学生に通わせることも、わかる。やったことがあるから。

 でも、人に助けを求めるのってどうすればよいのかしら。

 私、やったことないから……わからない。

 扶助とか、補助とか、そういうのわからないから、あたし、こんな家にしか住めない。わからないって言うと怒られるから、だからわかることしか出来ないの。

 私、私が出来ることはわかるけど、あの人がやってくれてたことってよくわからないの。

 でも耕太、私、アナタを守るからね。

 だから、静かにしてね。。


『ねえ、お母さん……』


 私は不安そうな耕太の頭を撫でてやる。

 ああ、うるさいな。

 声には出さない、けれど自分の中にちらりと過ぎった言葉に私は心の底から驚いた。

 静かにして欲しい。

 私だってどうしようもないのに。

 他の家の子だったら、ゲームでも遊んで静かにしているのだろうか。

 ある日、私はゲームを取り扱っているリサイクルショップに行ってみた。


 古いゲームのコーナーを見る。

 ダンジョンがランダムに作り直されるから、何度でも遊べるというゲームソフトが売られている。

 ああ、こういうゲームがあれば、あの子は家の中で静かにしているのかな。

 ……駄目だ。

 せめて、遊び道具ぐらいは子どもが興味のあるものを買ってあげたい。


 子どもの流行はわからないけれど、耕太が見ていたアニメのキャラが出ているゲームがあった。

 中古だけど最新のゲーム機、中古だけど新し目のゲームソフト、値札を見たけれど買えるようなものじゃなかった。


 私はもう一度、ダンジョンがランダムに作り直されるというゲームを見た。

 古い中古のソフト、それを遊ぶための古い中古のゲーム機、ああ、安い。

 これぐらいなら、買える……ジャンク品、動かないんですか。

 動くものの値段を見た。

 せめてゲームで遊ばせてあげることぐらいはしたいのに。

 私は息子の好みじゃない、私の都合で考えたゲームを選んだのに、それだって動かないゴミしか買えない。 


『この家、何かがいるよ、おかしいよ』


 そうね、静かにしてね。

 耕太の声を後ろ手に聞きながら私は化粧を続ける。

 この家には何かがいる、地縛霊とか悪霊とかいうのだろうか。

 家賃が安いから当然だ。そういうのはわかる。

 化粧というよりも工事だ、その悪霊につけられた傷を私は必死で塗りたくる。埋めるように塗りたくる。

 美しくいたい、私綺麗でいたい。

 綺麗じゃなきゃ褒めてくれないし、もう誰も褒めてくれないけど。

 耕太が必死に声を堪えている。

 ああ、そうか。

 静かにしてっていったから、静かにしようとしてくれているんだ。

 耕太、いい子ね。

 私はゴミしか買えない、クズなのに。


『……』

 耕太はすっかり無口になった。

 いや、何か言いたいのだろうけれど、すっかり諦めてしまったのだろう。

 私のせいだ。

 けれど眠りにつく度に悪夢に魘されている。

 絶叫して目を覚ましては、大丈夫と誤魔化す。

 わかる、わたし、お母さんだから……それぐらいのことはわかるけれど、何も出来ない。この家にいるものが怖い、けれど怖いと言ったところでしょうがない。

 私だって、どうしようもないから。

 引っ越したいって言われても、どうしようも出来ないから、私。

 いや、本当はしなかっただけなのかな。

 やったら出来ることをしなかっただけなのかな。

 ああ……私なんなんだろ……


『全員、呪ってやる』

『辞めてぇぇぇぇぇぇ!!!』

 この家に取り憑いている悪霊の声がした。

 ああ……私はわからなかった。

 耕太の首を絞めている私の腕は誰のものなのだろう。

 この家の悪霊に取り憑かれて、私のものじゃなくなったのだろうか。

 それとも、悪霊とは無関係に、私が私の子どもを殺そうとしているのだろうか。

 

 息子はどんどん立派になっていく。

 最初は怯えていたけれど、もう何も言わなくなった。

 他の子が持っているものを殆ど持っていないのにわがまま一つ言わない。

 頑張っている。

 私と違って、私と違って本当によく出来た子どもで、私だけが惨めだ。


 首を絞められた息子が青ざめた顔で、私の背後を指差す。

 悪霊。

 私からは見えない。

 いるのだろうか。

 私じゃなくて悪霊が悪いと、そう言ってくれているのだろうか。

 違う、悪霊じゃなくて私が悪いの。


 私がもっとちゃんとしていればよかったの。

 ごめん。耕太。


 私もすぐ死ぬから。


 死んだらせめて……耕太の好きなゲームじゃなくても、せめて遊ばせてあげるぐらいのことはしたいな。


 ◆


「俵さんのお母さんなんですか、この2RDKを作り上げたのは!?」

 迷宮そのものに向かって叫ぶように私は言った。

 返事はない。

 迷宮の床に落ちた俵さんのお母さんの口紅はどれほど幻視をしても、さっき以外の光景を見せない。どれだけ目を凝らしても救いが見えない。忍者でも、なんでも良い。理不尽を理不尽に破壊してくれる人が来てくれればよかったのに、何も見えない。


「俵さんは生きています!もう、こんなことしなくて良いんです!!」

 いや、たしかに死んでいたはずだ。

 ニュースにもなっている――やはり俵さんは死んでいたのだ、ならば何故生きているのか。

 やはり、わからないことだらけだ。


 けれど、せめて一つぐらいは決着をつけていきたい。

 さっきは出来なかったけれど……もう一度、今ならどれだけでも集中出来そうな気がする。何か特定のものを見ようとするのではなく、家そのものに精神を集中する。一分、二分、三分、五分、十分……三十分……一時間。

 私が動かなければ、この迷宮の誰も動かない。

 私は見続けて、見続けて、見続けて、そして一瞬霊視に成功した。


『結局、ゲームソフトだけは買ったの……やすかったから……耕太のために何かしたって証拠が欲しかったから……何にもならないけど……でも意味がないから隠したの……』

 


 俵さんのお母さんが母親として正しかったのか、それとも間違っているのか、そういう判断は私には出来ない。そもそも悪霊に取り憑かれている時点で――心まで蝕まれているのかもしれない、本心じゃないのかもしれない、悪霊なんかは関係なく、疲れ切ってしまった人なのかもしれない。

 ただ、俵さんならばそうするだろう。

 私は――


 階段を駆け上がり、駆け上がり、駆け上がり、一階に戻ってきた。

 配置場所はトイレ、トイレのドアを開け、玄関、玄関から――リビングルーム!


 霊視をした私だから、気づけたのか。

 それとも西原が無関心で、そしてダンジョン攻略を楽しんでいたから気づかなかったのか。

 ただ、宝はどこまでも続く地下奥深くの迷宮なんかではなく、マンションの天井裏に隠されていた。


 天井裏を霊視すると、ゲームソフトとそこに取り憑いた悪霊の姿が見えた。

 口紅を霊視した時に見た女性――俵さんの母親だ。


「俵さん……いや、耕太くんのお母さんですか?」

「ギヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒ」


「もう、こんなことはやめて大人しく成仏していただけませんか」

「ヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒ」

 軋んだギアのような笑い声しか帰ってこない。

 自分が何のために事故物件を作ったのかを完全に忘れてしまって、ただ思い出だけが彼女のことを物語っているのか。それともただ悪意による蹂躙を楽しむ完全な悪霊と化してしまったのか。


 私は目を瞑って、パパとママのことを思った。


 霊ならば問答無用に消し去ってしまって良いのか。

 答えは出ない。

 これは単なる私のエゴイズムで、自分のパパとママだから、一生後悔している――それだけのことなのかもしれない。

 それでも、今だけは……誰も幸せにならない事故物件なんてものは破壊する。


 ――そこに隠されたゲームソフトと、それに取り憑いた独りの母親に向かって天井を突き破らん勢いで食塩瓶の清めの塩を投げつけた。


「ぐ、おおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!!!!!」

 ゲームソフトという物語に取り憑き、ゲームを再現しようとしたから、なのか、あるいは出力の全てがランダムダンジョンの構築と自身の存在を隠すために向けられたからなのか、あっさりと俵さんの母親は消え去った。


 どす。

 音がした。


 カサカサに干からびた、首元に縄のかかった男――いや、男だった悪霊だ。


「……ァッ……ッ……」

 互いが悪霊になって立場が逆転したのか、生前の俵さん達を苦しめたこの男は、俵さんの母に拷問でもされていて、彼女の成仏で解放されたのか、それともダンジョンを構成するエネルギーと化していたのか。

 どっちでもいいことだ。

 どうでもいい。


 天井裏から役目を終えた清めの食塩瓶が落ちてくる。

 私はそれをキャッチすると、右手にパッとふりかけた。


「ノ……ロ……」

「成仏パンチ!」

「うああああああああああああああああああああああ!!!!!」

 少し清めの塩をふりかけたパンチで成仏する――その程度まで弱まっていたらしい。


 俵さんならこの男は遠慮なく消滅させただろうけど、お母さんはどうなのだろう。

 わからない。

 わからないけれど、少なくとも私の時は最悪な気分だった。

 だから、そんなことをさせるぐらいならば、私がやる。


 それで、いい。

 そう思っている。


 ◆


 外に出ると、もうすっかり夜の帳が下りていた。

 星座を描けるほどではないけれど、星が見える。

 そして、眩い光を放って輝く月の姿も。

 不思議だった。

 普段なら星空なんて、そこまで興味を示さないはずなのに――月の引力に引かれるように、私は夜空に浮かぶ月から目が離せない。


 私は見た。

 月を見た。

 かつて月にあった命を見た。

 月に憑いた悪霊を見た。

 月に渦巻く憎悪を見た。

 月を取り巻く怨詛を見た。


 私は気づいてしまった。


 私は絶望を見た。


【つづく】

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