29.毒ヒグマ


 「んんんん……!!!!」

 一応は紫ヒグマは部屋の隅にいる。

 ただ、距離という壁はあまりにも頼りない。

 私の一回の行動につき、相手も一回行動する。

 私が動かなければ、毒ヒグマも動かない。

 一回に移動できる距離も、私の歩幅に合わせているらしい。

 だから距離を取り続ければ、紫ヒグマが私に追いつくことはないけれど――そういう制約がなければ、一度の跳躍で容易に殺されてしまうだろう。その程度の距離しかない。


「まああああああああああ!!!!!」

 まんじりとも動かない紫ヒグマの口からその獣毛と同じ色の唾液が垂れて、地面に落ちた。じゅうという音を立てて、床が溶ける。

 酸ヒグマか、いや色からすればゲーム的な毒ヒグマらしい。


「とりあえずは距離を取ってうご――」

 私がそろそろと一歩下がろうとするのに対し、毒ヒグマは動かなかった。

 その代わりに、くちゅくちゅと音を立てて口の中に溜めた唾液を――私に向かって吐き出してきた。果たして、獣が吐き出した唾が何故、これほどまでに指向性を持ってしっかりと私の方に飛んでくるのか。ゲーム的な都合――そういうことなのだろうか。

「うわああああああああ!!!!!」

 私はとっさに毒ヒグマの攻撃に背を向けた。

 背負っていたリュックサックが盾になることを祈って。

 じゅうと音を立てて、リュックサックの下半分が溶け、どろどろに消えてしまった底からつるりと聖水の壺が滑り落ちて水音とともに割れた。音はやけにうるさく響いた。聖水ならモンスターにも効くのではないかと思って持ってきたのだが、結果として……ただ、高い金を払って得てしまった水を迷宮の養分にするだけに終わってしまった。


「なんで事故物件に……毒ヒグマがいるんですか!」

 言ってもしょうがないことだ、納得がいかないという点ならばタワーマンションが殺戮ロボに変形するほうが納得がいかない。それよりはマシだ。自分をそう宥めようとするが、やはり納得しがたい。


「ぐぐぐぐぐぐぐ」

 毒ヒグマが低い唸り声を上げて私を威嚇する。

 おそらく次も、毒の涎で攻撃してくるだろう。

 もうリュックサックも盾としては役に立たない。

 いや、上半分は残っているから上手いこと相手の涎を受けることが出来れば、もう一発分の盾にはなれるかもしれないが――しかし、そんな捕球能力は私にはない。


 こんなところで終わるわけにはいかない――毒涎一発分ぐらいなら耐えれると覚悟を決めるか。しかし、毒だ。現実的に考えたら一発盛られたらおそらくアウトだろう。自分が動くまで相手も動かない。だからいくらでも考え続けることが出来るし、いくら考えても何の案も思い浮かばなければ、好きなタイミングでスイッチを押せるという自由があるだけの死刑囚になるだけだ。


 かろ。

 その時、私のリュックサックからもう一つのアイテムが私の足元に転がり落ちてきた。清めの塩を――食塩の瓶に詰めたものだ。


 もう、ゲーム的な要素に賭けるしかない。

 私は食塩瓶に入ったままの清めの塩を毒ヒグマに投げつけた。

 ナイスコントロールと自分を褒めてやりたくなる。

 清めの食塩瓶はきれいな放物線を描いて毒ヒグマの頭部に命中した。


「ぐおおおおおおおお」

 清めの塩が直接命中したわけではない、しかし毒ヒグマが消滅していく。

 そもそも毒ヒグマに清めの塩が効くかもわからなかったし、ゲーム的な処理としてこれが命中扱いになるかもわからなかった。

 けれど、結果としては正解だったらしい。


 ゲーム的な扱いで清めの塩は消えなかったらしい、外から持ち込んできたもので、中のものを投げつけたのならば、このダンジョン内で消滅するのだろうか。まあ、今はこの幸運に感謝することにしよう。


 私はほっと胸をなでおろし、周囲を霊視する。

 他のモンスターは私のいる場所よりも遠い、下り階段は遠くに、そして上がり階段は近くにある。そして私は清めの塩をまだ持っているけれど、聖水を失った。霊視を得て……正直なところ油断していた部分がある。

 とりあえずはこの事故物件は今は私のもので、誰かが勝手に入り込むということもない。命を優先して今日は一旦引き返そうか、別に急ぐ必要はないのだ。明日や来週に再度攻略に赴いても良い。

 一旦引き返そう、そう決意し――私は上がり階段のある部屋へと移動を開始した。


 階段を上がった際に敵に出会わない、これだけは祈るしかないが、それだけ大丈夫ならば、きっと――無事に帰ることが出来るだろう。

 くねくねと暗い通路を通り、上がり階段のある部屋に。

 その時、私の目がこの部屋に落ちているアイテムに気がついた――瞬『お母さん……僕……』

 私の頭の中に霊視による情報が流れ込んできた。


【つづく】

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