26.コンティニュー
◆
目が覚めても私の視界は白い闇に覆われていた。
殺されてしまったのだろうか、と一瞬だけ考えて――私の顔になにか紙のようなものが覆いかぶさっていることに気づき、手で掴み取った。
「ここは……」
背中の感触は硬く冷たい。
私は立ち上がり、振り返った。
スチール製のドア、そして部屋番号は『103』
マンション『マヨヒガ』――その廊下の、かつて俵さんが住んでいた2RDKの部屋の前、西原に倒された私は部屋を追い出されて扉のに寄りかからされていたらしい。剣はない。どうやら取り上げられてしまったみたいだ。
「……あれ」
私の顔を覆っていた紙には文字が書いてあった。
どうやら手紙らしい――送り主は当然の一人しか考えられない。
読まずに破り捨てたいと思ったけれど、私は一応その文章に目を通す。
『東城さん、お身体にお大事は無かったでしょうか、貴方を苦しめることなく倒したいと思い、アッパーカットで貴方の顎を打ちました。痛みはなかったと思いますが脳震盪ですので一応は病院に行って下さい。とりあえず俺は、この部屋を去ることにします。調査を途中で打ち切ってしまうことになるのは大変悔しいことですが、東城さんと目的が同じままならば、俺としては問題はないのですが、やはり貴方の方から俺への衝突は避けられません。とりあえずクールダウンのために時間を置きたいと思っています。落ち着きましたらまたお会いして、お話しましょう 西原
追伸 とりあえず事故物件を作ったり人を殺すのは貴方に再会するまで辞めておこうと思います。先ほども言いましたが、他者への優しさで力を発揮できるのか、その答えが知りたいのです』
私はその手紙を無言で破り捨てて、ポケットの中に突っ込んだ。
ポケットの中に入れることすら不快だけれど、私は怒っていても廊下にゴミを捨てられるような人間にはなれないらしい。
「落ち着こう……落ち着こう……落ち着こう……」
口に出して言葉を発する。
そして、ストレッチで強張った身体を和らげる。
廊下に置物のように置かれていた私の身体はどうもカチコチだ。
ひとしきり、身体を伸ばすと深く深呼吸をする。
深く息を吸う度に、思考が落ちついていく。
深く息を吐く度に、頭の中から怒りがどこかへ去っていく。
「……ッ」
もういいだろう、そう思った瞬間、割れたボールペンのインクみたいに怒りが頭の中に滲んでいく。落ち着けるわけがない。それでも必死で落ち着こうと私は何度も深呼吸を繰り返す。
いっそ怒りに身を全部任せてしまいたい。
けど、駄目だ。
落ち着いて行動しないといけない。
私が怒ったからって漫画のキャラみたいにパワーアップするわけじゃない。むしろ失敗するだけだ。西原の時だってそうだ。アイツは完全に私のことを舐めていて……だから、私がつきまとっても何も思わなかっただろう。アイツについて回っていれば助けられた命があったかもしれない。
「ああー……っ!」
思わず叫んで、どんどんと103号室のドアを叩いた。
手紙を信じるなら、アイツとはまた会うことになる多分。けれど、それまでに本当に犠牲者は出ないのだろうか。いや、それまでに誰も死なないのだとしても、私に選択が突きつけられることになる。
「ハワイ……」
私が行きたい国というわけではない。
ただ、パパは仕事が忙しい時に、虚ろな目でよく「ハワイ……」と口にしていた。
逃げてしまおうか、再会を引き伸ばしにすれば……それまで西原による犠牲者は出ない。逃避気味にそう考えて、私は頬を叩いて気合を入れ直す。
そんな言葉を信じて良いわけがない。
絶対の約束というわけじゃない、一方的な言葉だ。相手はいつだってそれを無かったことに出来る。そんなものに自分の行動を委ねてしまうつもりか。
もう一度、頬を叩く。
熱のような痛みが私の身体から弱音を追い出す。
2RDKから西原は去り、私一人で探索が可能になった。
モンスターの強さがどれほどのものかわからないけれど、行動がターン制というのならば、私でも攻略が出来るかもしれない。ダンジョンの中に落ちているもので戦闘力は補えるかもしれない。
……けれど、私一人で突っ込んだところで普通に死ぬだろう。どれだけ頑張ったところで、結局のところ生きてきた世界が違うのだ。
私の中の冷静な私が耳元で囁く。
俵さんのために何かをしたいのか、自分自身が俵さんのことを知りたいのか、それともただ単純に無力な自分に腹を立てて、自暴自棄になっているだけなのかもしれないぞ。余計なことに首を突っ込もうとするな、ただ助けられたことを感謝して日常を生きよう。俵さんへの恩返しを考えるなら、それが一番じゃないのか。少なくとも、気になるから、ちょっと調査してみよう――なんて段階はとうに過ぎてしまっている。2RDKなんて私一人の手に負えるものじゃない。
どこまでも正論だった。
いや、最初からわかっていたことだ。
ただ、私の怒りと無力感と悲しみがその正論に蓋をしていたんだ。
ただ、生きるということが許せなくなるほど、私は自分が許せなかった。
罰が欲しかったのだろうか、肯定感が欲しかったのだろうか。けれど私は……今のままの私が許せないことは間違いない。
今の私はそういう正しさに背を向けないと生きていけない。
「……帰ろう」
とりあえず私はマンションを出た。
一応はあの部屋も私の家だけれど、今帰るべき場所はここじゃない。
普段よりも明るく輝いているように見える月を見ながら、私は帰路につく。
エントランスホールに入り、いい加減に中身が溜まっているであろうポストを一応はチェックする。
大切なメッセージが文章で送られてくることは殆ど無い。
基本的にはうっかり私が住所を教えることになってしまった企業から届くダイレクトメールか、マンションのポスト全てに投げ入れられた下手すれば年齢も性別も合わないような広告だ。
そのような紙束をポストから取り出して、家の中で確認したそばからゴミ箱に放り投げていく。
『マンションを買いませんか』『マンションを買いませんか』『マンションを買いませんか』『修行して霊能力を身に着けませんか』どれほどマンションを買わせたいのだろう、マンションDMを放り捨て、マンションDMを放り捨て、マンションDMを放り捨て、そして修行DMを放り捨てかけたところで、私の手が止まった。
『心霊現象にお困りの方必見です もう怪しげな霊能者やスピリチュアルに頼る時代は終わりです。貴方自身が力を身に着け、貴方自身の力で貴方を悩ませる心霊現象を解決するのです。一週間で霊能力を身につけるお急ぎコースから、スタンダードな三十年コースまでコースは充実。さあ、貴方もレッツゴースト!』
「胡散臭すぎる!」
思わず口に出してしまうほどに胡散臭い広告だった。
特に、レッツゴーストが最悪だ。DMに連絡仕掛けた人間ですら、その手を止めてゴミ箱に放り捨てるだろう。私もそうだ。力が足りないというのならば補えば良い……ならば、修行を、そう思いかけた私の頭をレッツゴーストが冷やしきった。こんなところがまともな修行先のわけがない。
「けど……逆に……」
しかし、怪しすぎて逆に本物なのじゃないか。
ゴミ箱に捨てようとした手を止めて、私は再びそのDMをまじまじと眺めた。
連絡先は090から始まり、就業場所は都内の雑居ビルらしい。
あまりにも怪しすぎる。やはり信じられる要素がない。
「けれど……」
溺れる者は藁をも掴む。
私には怒りがあり、無力感があり、絶望があり、悲しみがあり、そして修行という名のゴミ箱に突っ込むことが出来るぐらいの貯金もあった。
気づくと私はもはや今が何時であるのかを気にすることもなく、相手方の電話番号をプッシュしていた。
「すみません……」
「あ……ふぁい……」
「あの!一週間で事故物件の2RDKを攻略できるようになりたいんですけれども!」
「……間違いじゃありませんか?」
切られた。
【つづく】
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