24.試し行動
◆
血の臭いはなかった。流れることすらなかった。
バラバラになった命の破片が壁に叩きつけられたり、床に飛び散ったりということもない。
まるでゴブリンなんて最初から幻だったみたいに。退治されたゴブリンは消え去った。目の前で命が消えた――そんな感じはなかった。ただ一瞬だけ夢を見て、その内容も思い出すこともなく、目を覚ましてしまった。そんな感じだった。
「さっきまで……ゴブリンがいたんですよね」
「確かにいました、俺の足にも肉が触れた感触がありました……でも、倒したら煙に触れてしまうみたいに消えてしまう。この事故物件に出るモンスターはいつもそうなんですよね……」
そう言うと、西原さんは壁に背をつけて私に向き直った。
モンスターの消え去った部屋の中に私は入り込む。
何も無い部屋だ。アイテムもなければ、下り階段もない。入ってきた通路があるだけだ。元の場所に戻ることしか出来ない。
「それでどうでしょう」
西原さんは相変わらず困ったような表情で私に言った。
「結構、俺は強いので……いい加減、剣を構えるのは辞めたらどうですか。疲れるでしょう?」
ゴブリンであるとか、まだ見ぬエンカウントモンスターに備えてというわけではなく、ただ西原さんのために私は剣を構え続けている。
「一応、その……剣を構えてようが、構えてなかろうが、殺そうと思えばすぐにでも殺せますから」
その言葉に剣を握る私の手により強く力が入る。
先ほど、西原さんに対峙したものがゴブリンではなく、私でも結果は同じだっただろう。ただ死体が残るかどうかの違いぐらいしかない。一応の武器を構えても無駄なものは無駄だ。
「……そうですね」
少し考えた後、私は剣を下ろし、重力に任せるように切っ先を下に向けた。
鞘のない剣だ。結局は抜き身のまま持ち歩かなければならない。
「……良いですね」
西原さんが私の顔をまじまじと見て言った。
その視線から逃れようと私は顔を背けて、吐き捨てるように言葉を返す。
「何がですか?」
「俺に勝てないとわかっているから、武器は下ろしている……けれど、それは心が折れて諦めたわけじゃない。別の手段を探しているだけなんですね」
「……まあ、そうですね。なにか他に道具があって……それで貴方を拘束とか出来るなら、すぐにでもやるでしょうね」
正直に言ったところで西原さんは大して気にしないだろう。
いや、表面上は困ったように眉を曇らして少しは顔を俯けるのだろうが、それだけだ。
「そんなに用心しなくても、別に貴方に危害を加えるつもりはないんですけどね、一応は」
「……一応ですか」
「まあ、世の中何があるかわかりませんし……少なくとも、東城さんの方がどうしてもやりたいなぁ……ってなったら、まあ殺しますけど」
そう言って、空を叩くように西原さんは平手を打った。
ビンタ一発――それで私は死ぬだろう。
別に死にたいというわけじゃない、今はこうして落ち着いている――というか、西原さんが私を殺さないんだろうなっていう打算があるだけで、実際に殺されそうになったら泣いて悲鳴を上げるかもしれない。
「殺人鬼が目の前にいて、警察官には頼れない……そんな状況が来たら、止めたくなりませんか?」
「普通の人間なら逃げると思いますね」
当然のことを当然に西原さんは述べた。
「それに例えで言ったのか、あるいはわかってていったのかはわかりませんけど、例え東城さんがめちゃくちゃ強くて、俺を止められたとして……けれど、警察官に引き渡して終わりってわけにはいきませんよ。俺を刑事裁判に引きずり出すことは出来ると思いますし、有罪を勧告することも出来ると思いますけど……牢に繋ぎ止めておくことは出来ませんから……」
挑発するかのような笑いが西原さんの口元に浮かんでいた。
「東城さんって自分のためじゃなくて他人のために戦える素敵な人だと思うんですよね、まあ俺が勝手に言ってるだけで、東城さんが心の奥底で何考えてるかなんて俺にはわかりませんけど……ただ、優しくてまともだから、殺しはしたくないタイプの人だと思うんですよね……まあ、実際試してみたら案外人とか殺せてしまう人間か……も……し……」
西原さんが途中まで言いかけた言葉は完成することなく、地下迷宮の冷えた空気の中に間延びしながら、消えていった。そのかわり「あっ」という音が西原さんの口から漏れた。その音自体に意味はないが、感情が籠もっている。何かに気づいた時、思わず人はそういう音を発する。
「試してみましょうか」
「えっ」
西原さんのジャージが縦に割かれていく。
何のことはない、真ん中を走るファスナーが降ろされて行くだけだ。
下に肌着を着ていないのか、あっという間に西原さんの裸の上半身が顕になった。
果たして、目にも映らないほどの凄まじい速さを生み出す力はその身体のどこに眠っているというのだろう。
痩せぎすの身体に脂肪はなく、かといって筋肉があるわけでもない。
ただの皮とあるかないかの肉が骨に張り付いている――うっすらと浮かび上がった骨を見れば思わずそんな感想を抱いてしまう。そういう身体だった。
ジャージを一つの衣類として保っていたファスナーの黒い線ではない、西原さんの痩せた身体に赤い縦線が走った。
一瞬、私はザクロを思った。
赤子を食らう鬼子母神は、赤子の代わりにお釈迦様からザクロを食べるように言われたらしい。ザクロは人肉の代わりとなる味がするからなのだろうか。それとも単にその見た目の瑞々しい赤々しさが血を、そして果皮を剥けば出てくる多数のぶつぶつとした果肉がどこか人間の臓物や、あるいは傷口にぷっくりと浮かぶ血の玉を連想させるからなのだろうか。
人間の中にはザクロの果肉のようなものが詰まっている――そんなことを思って、私はザクロが食べられなくなってしまった。
本物はザクロの果肉ほど色鮮やかでなければ、形が丸々としてどれもが同じような形をしているというわけではない。
私の目の前に西原さんの剥き出しの心臓と臓物があった。
自分の手で自分の体を割いたのだろうか、おそらく実現する能力に不足はないだろう。だが、それを実行してしまう精神性は足りているというべきなのか、それとも足りないというべきなのか。
剥き出しの心臓が規則正しく脈を打っている。
医療の知識は無いが、人間の中身をこのような場所に晒すべきではないと思う。
「きゃああああああああああああああ!!!!!!!」
私の頭の中のどこか冷静な部分がそこまで考えていたけれど、身体の反応は素直で悲鳴を上げていた。肉体のグロテスクさに恐怖を覚えてしまったのか、それとも突然に人間の中身を顕にする目の前の男の精神のグロテスクさに恐怖を覚えてしまったのか。
「……落ち着いて下さい」
痛みは間違いなく感じているのだろう。
その顔に珠のような汗を浮かべ、表情は苦悶に歪んでいた。
その割に口ぶりは落ち着いていて、そのアンバランスさが余計に怖かった。
「何をしているんですか!?いいから、それ閉まって……仕舞わないと!」
心臓が見えるように綺麗に肉と皮を割いたのか、少なくとも西原さんの中身は大人しく体内に収まっている。ただ、少しでも身体を動かしたら中身が漏れ出してしまうんじゃないか、そんなことを考えてしまう。
「……東城さん、そのチャンスです」
「は?」
「今、俺の心臓は剥き出しになっているので……その剣で刺せば殺せると思う……いや、間違いなく死にます。チャンスです」
「何を言っているんですか!?」
「確かめてるんですよ、東城さんは……俺が思っているだけで俺みたいなのを殺せる人間なのか、それとも絶好のチャンスでも見逃してしまうような心の優しい人間なのか」
「……どうかしてますよ!?」
「……いや、わかってたことじゃないですか」
汗を顔中にべっとりと貼り付けながら、西原さんが苦笑した。
「勿論、俺はそういう奴ですよ……そして、そういう奴だから、東城さんは俺から目を離すことが出来ない……わかっていたことじゃないですか……で、どうするんですか?早く決めてくださいよ……痛いんですよ」
私はちらりと右手の剣を見やった。
恐ろしい人だ、と思った。
「俺は東城さんがそういうこと出来ないと思っていますけど、でも案外やれるなあーと思うなら、全然やってくれても大丈夫ですよ」
【つづく】
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