20.二人目の事故物件一級建築士


 ◆


 剣の使い方はわからない。

 ただ、その場に残しておいて……例えば、さっき見た緑の子鬼のような生物に使われてしまっては溜まったものではない。

 私は包丁を持つ時のように、鞘のない抜き身の剣の刀身を床に向けた。

 剣の切っ先は床に触れるか触れないかぐらいの距離で僅かに震えている。無理に持とうとせずにぶら下げておいても、重いものは重い。杖をついて歩くように床に剣をついて歩いていけばかなり楽になるだろうけれど、原状回復義務という言葉が私の頭の中に過ぎって、それは躊躇われた。

 笑ってしまう。原状回復も何も無いだろうに、何度異常に触れても私の根底には未だに常識がずっしりと居座っているらしい。


 果たして何が待ち受けているのか、さっきまでは玄関に繋がっていて、本当ならば脱衣所に続くであろうすりガラスの折れ戸を開く。


「……っ」

 バスルームから出た先は広さから判断するにリビングルームだろうか。

 少なくとも、私が事前に調べた間取りとは全く違う。

 そのような異様な構造なのだろうか、それとも……ドアを開くと室内のランダムな部屋にワープするのだろうか。


 生活感の無い部屋だった。

 部屋の中央、台どころかマットすら無い床にテレビが直接置かれている。

 そして部屋のあちこちに、中から何枚かの小銭が溢れ出しているビニール袋と特に包装されていないバゲットが落ちていた。乱雑なように見えるが、埃一つ落ちていない。小綺麗なフローリングの床に、ただ物だけがある程度のまとまりを持って散らかされているのは不気味だった。

 ただパッと見では先程の小鬼のようなものは見えなかった、私が意を決して室内に一歩踏み込んだ……その時。


「危ないですよ……」

「えっ!?」

 突然かけられた声に驚いて、私の持つ剣が床に触れた。

 切っ先が私のすぐ前の床をついた瞬間……何故、気づかなかったのだろう、それとも、たった今出現したのだろうか。私のすぐ前に、バネじかけで動物を捕らえる罠……トラバサミがあった。


「……こんにちは」

 壁にぴっしりと背をつけて、部屋の隅、その角を埋めるかのように、一人の男の人がリビングルームに体育座りをしていた。

「……こんにちは」

 掠れた声の挨拶に、私も挨拶を返す。

 着古したジャージを着た、痩せた男の人だった。

 髪は繁殖した庭の雑草みたいに野放図に伸びている。

 皺も白髪も皮膚のたるみも、身体に老化を示す具体的な証拠は刻まれていない。ただ、落ち窪んだ目と誰からも見向きされない街路樹のような雰囲気を見ていると、二十も三十も私よりも年上なように思えてくる。


「幽霊の人ですか?」

 この家に人間は住んでいないはずだ、そうであるなら私がこうやってこの部屋に上がり込んでいるわけがない。

「幽霊の人、ですか。人の幽霊はいても、幽霊の人なんていませんよ」

 幽霊はただのバケモノですから。そう言った後、ジャージの人はくつくつと声を殺して笑い、そして立ち上がった。

 イメージに反して高い、百八十センチメートルぐらいはあるだろうか。


「はじめまして、東城さん」

「なんで、私の名前を……?」

 ジャージの人が私の名前を呼んだ瞬間、私は剣を両手で持って垂直に構えた。一度か二度だけ見たことがある剣道の構えはこんなものだっただろうか、ブラフにすらならないだろうけれど、少なくとも何もしないで会話を続けられないだろう。


「あっ、すみません……俺だけが名前を知っているというのも女性には気味の悪い話ですよね。自己紹介させていただきます。西原さいばら六彦ろくひこと申します。普段は深夜のコンビニで働かせていただいています……ああ、お恥ずかしい話ですが、正社員というわけではなく、アルバイトでして、週三回だけ入れさせてもらっています……贅沢もせず、未来のことも考えなければ、生きていくには週三回の労働で十分なんですよ」

 滔々と語る口ぶりに嘘を言っている様子はない。

 だがズレている。

 聞きたいのはそこではないし、別に私がジャージの人……西原さんの名前を知ったところで、別に不安が払拭されるわけでもない。剣の柄を握る手に余計に力がこもった。


「なぜ、名前を知っているのかを聞きたいんですけど……」

「ああ、すみません……すみません……」

 西原さんは慇懃に頭を下げながら、私に向かって歩きだしてきた。


「近づかないでください!」

 警告するように私は剣を縦に振った。

 腕の力だけで振った剣に、どれだけ警告の効力があるのか。

 ただ、剣は剣だから使い手の私がどれだけへっぽこでも、当たりどころが良かったり悪かったりすれば斬れる。少なくとも私なら近づきたいとは思わない。


「ああ、すみません……近づきません、ごめんなさい」

 西原さんがぴたりと足を止めた。

 哀れを誘う弱々しい口ぶりで、むしろこちらの方が謝りたくなってしまうぐらいだったけれど、決して油断はできない。


「ただ、ちょっとこの部屋に関してはちょっと準備中なものでして……その、本当に申し訳ないのですけれど、この部屋に興味を示す人間がいないか、四六時中、不動産会社の方を監視させていただいていたんです……すみません……」

「どういうことですか……?」

「俺、その……事故物件を作っているものでして……あっ……一応、資格としては事故物件一級建築士というのですけれど、まあ仕事というわけではなく、趣味のようなもので、はい……お金は一銭も貰っていないで、勝手にやっていることなんですけれど……メインはアルバイト……」

「事故物件一級建築士!?」

 悍ましい称号だった。

 私の親を含めたたくさんの人を殺し、それを燃料としてさらにたくさんの人を殺そうとした最悪のタワーマンションを生み出したあの事故物件一級建築士と眼の前の西原さんは同じだと言うのだろうか。

 いや、何より……かつて俵さんが住んでいたらしきこの部屋には、事故物件一級建築士が関わっているのだろうか。


「知っていますよ……西原さん、私、事故物件一級建築士のこと……」

 頭がかっと熱くなる。

 感情が私自身を焼きそうになるほどに燃え上がっている。

 私は感情を抑えて努めて冷静に振る舞おうとした。

 そうでなければ、声の代わりに炎を吐き出してしまっていただろう。


「ああ、ご存知なんですか……じゃあ、この家賃がとんでもなく安くて天国にも近いお得な部屋に住みに来たわけじゃないんですかね……?」

 部屋の隅の床が水面のように揺らいだ。

 水の底に沈めた風船が浮かび上がってくるみたいに、何かが浮かび上がってきた。

 物理的な法則性を無視して、そこには小銭の詰まったビニール袋があった。


「俵さんについて知っていることがあるなら教えて下さい」


【つづく】

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