19.2RDK


 ◆


 聞いたことのある駅から聞いたことのない駅を何度か乗り継いで、私は例の不動産会社へとやって来た。

 東京都内ではあったけれど、区内ではない。東京という街はどこもビル街か、あるいはどこかお洒落なものだと思っていたから、線路沿いに家やアパートが立ち並んでいて、住民の生活の匂いがむんと漂ってくるようなこの街が東京という首都の中に含まれているのは少し不思議なように思える。


 店頭のガラス掲示板には物件情報がずらりと並んでいる。賃貸マンション、賃貸一戸建て、ちらりと空きオフィスの情報なんかも混ざっているが、どの建物も東京に住む予定の無い私には縁がない。ただ、不動産会社に入るのが数年ぶりだったので少し気後れしてしまったのだろうか、店頭の物件情報を目で追っていると、賃貸マンション欄の情報に異様なものがあった。


『表示価格より10%引き』

『表示価格より30%引き』

『表示価格より半額』


 まるで閉店直前のスーパーの惣菜に貼られるような値引きシールが、その物件写真の上にベタベタと貼られていた。下らない悪戯――そうとしか思えない。なのに、その粘着質な薄っぺらい紙切れは厭な重量感を発していて、遮るもののない日差しを浴びながら、私の身体は震えていた。


「マンション『マヨヒガ』……103号室……」

 思わず私はその名前を口にしていた。

 半額の値引きシールが貼られていた物件は、まさしく私が今日内見に訪れようとしていた部屋だった。

 これは偶然か、あるいは運命か。

 背筋を這い登るような悪寒に、いっそ、引き返してしまおうかと思う自分がいる。

 瞬間、何に反応したのか――不動産会社のタッチ式の自動ドアが、誰かに触れられるでもなくひとりでに開いた。

 なにかおぞましいものが私を飲み込もうとしている、そんな気がした。引き返せと訴える本能の声を無視して、私は口を開いた運命の中に飛び込んだ。


「どうも、内見でお越しの東城とうじょう様ですね。私、長谷川はせがわと申します」

 白を基調とした不動産会社の受付で、ツーブロックの毎日ジムに行ってそうな若い男の人が私に慇懃に頭を下げた。その身体は引き締まっていてよく鍛えられているのだろうけれど、無意識に俵さんの巌のような巨躯と比べてしまう。


「は、はい……ちょっと住むかわからなくて申し訳ないんですけど……」

「いえいえ、その参考にしていただくための内見ですから」

 白い歯を見せて、長谷川さんが笑う。

 その笑顔に私はますます申し訳ない気持ちになってしまった。

 内見の目的は住むかどうかの参考にするためではなく、ただ単純にこの部屋のことを知ることだ。


「ところで、店頭の掲示板は見られましたか?」

 求人広告に採用したくなるような爽やかな笑顔を浮かべたまま、夏の日差しのように明るい声色で長谷川さんが言った。

「は、はい……半額シールが貼られてましたけど」

「幸運でしたね、東城さん」

『様』が『さん』に替わっている、成程、こういう風に距離を詰めていくんだな、などと私の中の奇妙に冷静な部分がそんなことを考えている。現実逃避だ。


「今日貼られたばかりでして、例のお部屋ですが、東城さんからご連絡頂いた際の半値でご案内出来ます」

 私はあの厭な感覚を思い出していた。

 体内から小銭が生じた時の苦痛を伴う異物感を。


「あの、ちなみに……基本的なことって聞いても大丈夫ですか?」

「なんでもお聞き頂いて大丈夫ですよ」

「なんで、不動産屋に値引きシールがあるんですか?」

「……なんででしょうね?」

 相変わらずの笑顔のまま、長谷川さんが言った。

 本来表に出すべき感情を隠して笑顔を浮かべているのかあるいはその感情自体がどこかに追いやられてしまったのか、私にはわからない。

 ただ、凍りついた太陽のような笑顔を見ながら、私は現在進行系で事件が起こっていることを察した。


「……内見なんですけど、私一人で行っても大丈夫ですか?」

「いえ、それは流石に……」

「じゃあ、今すぐ契約するので……鍵を渡してもらっても良いですか?」

「良いんですか、東城さん?」

 一筋の赤い線が長谷川さんの頬を伝い、地面に落ちた。

 それは長谷川さんの目から流れた血の涙だった。

 何も気にしていないのか、長谷川さんは相変わらずの笑顔で私に問いかける。


「きっと、もっと安くなりますよ」

 それは長谷川さんの声帯を震わせて出した、長谷川さんの声だったけれど、多分、長谷川さんの声ではない。そんな気がした。


「アナタが誰かは知りませんが……今すぐ、私の部屋の鍵を渡して頂けますか?」

「東城さん、賃貸ってそんなにすぐに契約できるものじゃないですよ……まぁ、でも……」

 長谷川さんの身体を借りたものが、ポケットから銀色の鍵を取り出した。

 その鍵が次の瞬間には金色の輝きを帯びている。

 家賃が下がりすぎて、住むだけで入居者に利益が発生する。事故物件の特徴だ。


「是非、俺の家に遊びに来てくださいよ」

「私の家です」

 握りしめた部屋の鍵がずしりと重い、純金製なのだろうか。

 私が鍵を財布に納めた瞬間、長谷川さんが白目を剥いて倒れた。

 その目からは血を流し、しかし私に先程まで向けられていた口元の笑みはそのままだ。


「……救急車!」


 ◆


 五階建て……周りの建物に比べれば大きいけれど、この前のタワーマンションと比べればかなり小さい、そんなマンションの前に立っていた。

 救急車で搬送される長谷川さんに対し、部外者の私に出来ることはない。

 ただ、長谷川さんの無事を祈り……私は、かつて俵さんが住んでいたであろう、そして現在進行系で何かが起こっているであろうマンション『マヨヒガ』にやって来た。


 マヨヒガ……漢字で書くならば、迷家だろうか。

 そのような名前をした訪れた人に幸福をもたらす家の伝承を一度だけ聞いたことがある。その家は現実とは違う不思議な空間にあって、その家に辿り着くことが出来た人間はその家にあるものを持ち出してもいいらしい。ただ、このマンションは伝承と違って幸福をもたらしはしないだろう。もしも、幸福をもたらす家ならば……誰も死ななくて済んだはずだ。


 迷家の名を冠したマンションを、私は一切迷わず、103号室に突き進む。

 名前がそうというだけで、古い賃貸マンションだ。外部からの侵入者を防ぐセキュリティもなく、私はあっさりと目的の部屋の前に辿り着いた。


 マヨヒガ103号室、家具付き2RDK。

 表札に名前はない。

 本来ならば誰もいないはずの家だ。

 ノックをすることもないし、インターホンを押したりもしない。

 ドアノブに差し込んだ純金製の鍵に対し、スチールのドアは安っぽく見える。

 ぎい。

 軋んだ音を立てて、扉が開く。


「ゴォォォッ!!!」

 玄関に待ち受けていたものは、唸り声を上げる棍棒を持った緑の子鬼だった。


「うわっ!」

 私は扉を閉めた。


 また、河童だったのだろうか。

 しかし、一瞬だったから断言出来ないが、頭に皿は無かったし、甲羅も無かったように見える。

 私は深呼吸を繰り返し、何かが出現したらすぐに殴れるように心を整えた。


 ぎい。

 軋んだ音を立てて、扉が開く。


「……えっ?」

 扉を開けた私の前に先程の緑の子鬼はいなかった。

 しかし、それだけならば私は困惑の声を上げなかっただろう。

 先ほど、扉を開いた時……そこは玄関だった。

 当然だろう、玄関の扉を開いたのだから玄関に出るに決まっている。


 けれど、今私の前に広がっている光景は……


「お風呂……?」

 然程広くもないバスルームだった。

 私は玄関の扉を開けっ放しにして、室内に侵入した。

 背後の玄関の扉から浴槽の中にまで太陽の光が差し込んで来る。

 バスルームの中に扉は三つ。

 玄関の扉、そして、おそらくは脱衣所とトイレ……なのだろうか。


「あれ?」

 その時、私は陽光を受けて浴槽の中で何かがキラリと輝いているのを見て、それを拾い上げた。


「これは……剣……?」

 剣に詳しいわけではない。

 ただ、浴槽の中に落ちていたものはいかにもファンタジーに登場しそうな……鋼の剣だった。


 私が家具付き2RDKの意味を思い知るのは、この後すぐのことだ。


【続く】

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