17.いってきます
◆
俵さんと少しだけ別れ、私は自分の家に戻ってきた。
権利だけを持っている、もう誰も住んでいない家に、おそらく、これからも誰かが住むことはないであろう家に。
床には掃除されることのなかった血痕が、当時のままこびりつき、このタワーマンションに住むにあたって用意したであろう新しい家具も、元々私達が住んでいた家から持ってきた思い出の詰まった古い家具も事故物件にされた時の衝撃のためか、殆どが破壊されていた。平等に降り積もった埃はかつてあった残酷を雪のように平等に消してくれたりはしない。ただ、かつてあった生活の痕跡など今となっては何の価値も無いのだと言っているようだ。
この家から見える東京の景色は灰色だ。墓みたいなビルばかりが目立つばかりで、生活の姿は一切見えない。あるいは私の心が、百階から見える東京の街をただの灰色の墓場に見せているのだろうか。もしかしたら昼なのが良くなかったのかもしれない。夜闇の中では人間の生活の灯がよく見える。キラキラと輝くそれをこの窓から見下ろせば、地上に銀河が広がっているように見えるかもしれない。
果たして自分は何を求めてここに来たのだろう。
警察か自衛隊か、あるいはマスコミなのか。人はすぐにでもこの『入居者の終の棲家になるタワー』に集まってくるだろう。何もかもが終わった今、こんな場所からは早く逃げ出してしまわなければならない。
私は自分の手の平をガラスに強く押し当てる。
手の平の中にある硬く冷たい感触のものが消え失せれば、今すぐにでもこのタワーマンションの外に出ていくことが出来る。加速度をつけて。
自分の中に生まれた発想に、私はハッと気づく。
勿論、そうなるわけがない。
手で押したぐらいでガラス戸が外れるはずがない。分厚い壁を押したらバタンと音を立てて壁が倒れたりしないのと同じだ。こんな高層のガラスだ。私が全力で殴っても、ちょっと削れるぐらいのヒビが入れば良いところで、私の力じゃ割ることも出来ないだろう。
けれど、多分、無意識的に……死のうかな、と思ったのだろう。
もし私の弱い力で奇跡的にガラスが外れて、そのガラスを押す勢いのまま宙に放り投げられたのならば、最期の瞬間がパパとママのいた家だったのなら、それでも良いと、私は思ってしまったのだろう。
「そっちに逝っても良いかなぁ」
誰もいない部屋で、私は独り問いかける。
返事はない、言葉を返してくれる人を私は自分自身の手で撃った。
既に死んでいた人だから、あの世というものがあるのならばそこに送り飛ばしただけだから……そういう自分を納得させられるような理屈はいくらでも湧いてくるけれど、心はそれに頷いてはくれない。
タワマンロボの破壊から東京を救い、直接の仇である事故物件一級建築士との決着を付けた今、すべてを終わらせた空虚の中に心の奥底に押し込めたはずの罪悪感が蘇っていた。
「やめとけよ」
扉の外から声がした。今日一日ですっかり聞き馴染んだ、俵さんの声だ。
こっそりと玄関ドアの前に立っていたらしい。
「やだな、一人にしてくださいって言ったじゃないですか」
さっきまでの感情を冗談にするみたいに、無理に明るい声を作って私は言った。
「ああ、ごめんな……でも、放っておけないだろ」
俵さんが玄関のドア越しに言う。
鍵は閉めていない、もっとも閉めていたとしても俵さんの力なら扉ごと引きちぎって入ってくることが出来るだろう。けれど、俵さんは家の中に入ってこようとはしなかった。
「どうすればよかったんでしょうね」
結果的に俵さんが事故物件一級建築士を倒してこの事件は終わった。結果だけの話をすれば、私は事故物件一級建築士を相手に時間を稼いで、タワマンロボに誰も殺させずに俵さんが事故物件一級建築士のところに到達するまでの時間を稼いだ、ということになる。ただ、もっと上手くやれる方法があったはずなのだ、と。そんな後悔が消えない。
「私はパパとママを撃ちました。もしかしたら話し合いで解決できたのかもしれなかったのに……もう何もわからなくなっちゃって……考えることをやめて、撃ってしまったんです……」
聞いているのかいないのか、俵さんからの返事は聞こえない。
けれど、ドア越しに俵さんが黙って頷いている姿が見えた気がして、私は言葉を続けた。
「パパとママは生活を続けていただけなんです、いつか私が帰ってくると信じて。パパとママは私の思い出の中のそのままの二人で、全然悪霊なんかじゃなくて、ただ私がそうじゃなかったから……私がパパとママにとっての私じゃなかったから、私は……」
「忍者がやって来て、悪霊をボコボコにしてくれたなんてさ、嘘だよ」
「えっ?」
「あの日の後悔は消えない、けど……誰かを助けることは出来る。だから、俺は……そうするって決めたんだ。あの時、何も出来なかった自分の代わりに何かをしてやることは出来ないけれど、今、何も出来ない奴の代わりに都合が良いぐらいの理不尽に強い奴として助けてやりたい」
俵さんが絞り出すように言った。
「生きてくれ、明子さん。過去は変えられないけれど、アンタがそうしてくれると……今の俺がちょっと救われる」
「俵さん……」
俵さんに言うべき言葉が頭の中に浮かんでは消えて、最終的にありがとうございます、その言葉だけが残った。俵さんにそれだけでも返せればと思ったのに、それを口にしようと思ったのに。嗚咽が込み上げて、どうしても口に出せそうになかった。
後悔は消えない。
結局、私は生きている間にパパとママの暮らすこの家に来ることはなかった。そして死んでから……もしかしたら、それはパパとママに正しい形でさよならを言うチャンスだったかもしれなかったのに、私はその機会を捨て去って、パパとママをこの家の外に追いやっただけだった。
私は家の中を見回す。
そこにかつてあったパパとママの生活の姿はない。
空っぽになってしまった入居者のいなくなった部屋に、私は心の中で別れを告げ、玄関のドアノブに手をかけて、そして振り返った。
振り返った家の中に、やはりパパとママの姿はなかった。
奇跡が起きて、パパとママの幽霊がこの家に戻ってくるということはない。あるいは幸福な幻覚を見るということもない。ただの空虚を見て、私ははっきりと言った。
「いってきます」
そして私は、家の外に出た。
◆
俵さんは私の前を去り、私もまたゆるゆると日常に戻っていった。
ただ、気になったことがあり、私はあることを調べることにした。
そして、『入居者の終の棲家になるタワー』の一件から一週間後、私はとうとう、ある記事を手にすることとなる。
東京の外れで起こった一家心中事件。
貧しい生活をしていた母親と息子が心中したというものだ。
母親は息子の首を絞めて殺した後、自分自身もまたロープで首を吊って死亡。
その、被害者の名は俵耕太
後悔は消えない。
俵さんの言葉を思い出しながら、私は虚空に問いかける。
俵さん、あなたは一体誰だったんですか?
【つづく】
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