16.入居者全滅


 ◆


 人間が蟻を踏み潰せば死ぬ。

 それと同じことが、俵に起こっているはずだった。

 タワマンロボの全質量をかけて踏み潰してやった。

 靴を履いて踏めば、靴底の隙間に入ってうっかり生き残ることはあるだろうが、タワマンロボの足は子どもの落書きのように単純な造形で、そしてその底面は滑らかだ。どうやったって逃れようがない。

 血も肉も骨も全てがぐじゃぐじゃになったシミになっていなければならない。であるというのに、何故、俵は――


「ぐぉぉぉぉぉぉぉっ!!」

 明子の拳が事故物件一級建築士の鳩尾に突き刺さった瞬間、事故物件一級建築士から、全ての思考が消えた。

 明子の拳は鍛え上げられたものではないが、彼女の装着した指輪がナックルダスターの役割を果たしている。文字通りの鉄拳である。その上、事故物件一級建築士の意識は完全に俵に向かっていたために、その攻撃に対し完全に無防備であった。


 この一瞬だけは事故物件一級建築士の脳ではなく、殴られた鳩尾の奥にある腹腔神経叢が事故物件一級建築士の身体を支配していた。腹腔神経叢は事故物件一級建築士に俵のことを考えさせない、明子のことも考えさせない、対処すべき現実を考えさせることも、あるいは未来について考えさせることもしない。考えることはただ一つ、自分が今痛いということ、ただそれだけだ。


「こ、殺してやる……」

 だが、それも一瞬のことだ。

 痛みは未だ腹部に残っている。

 だが、いつまでも苦痛に身を浸すことを事故物件一級建築士の殺意は許さなかった。事故物件一級建築士は右手にスマートフォンを構えた。スマートフォンはデフォルトの機能である通話とメールだけに留まらず、様々なアプリを利用できることでお馴染みであるが、事故物件一級建築士ならばメリーさんを召喚する魔具として用いることも出来るし、あるいはシンプルに武器として利用することも出来る。

 事故物件一級建築士をスマートフォンを握りしめ、明子の鳩尾を目掛けて真っ直ぐに突いた。スマートフォンを握りしめることでパンチ力は通常よりも上昇する。明子に自身と同じ苦痛を与えてやろうという意趣返しである。

 事故物件一級建築士の右拳の中で着信音が鳴る。画面に表示される名はマーキュリー・メリーさん、『入居者の終の棲家になるタワー』の中には、まだメリーさんがいる。明子を排除しながら数の優位を確保する心算であった。


「二度と両親と同じところに逝けないように、このマンションに縛り――」

「いいパンチだったな」

 しかし、その拳が明子に届くことはなかった。

 事故物件一級建築士が苦痛に呻いている一瞬、それだけの時間があれば十分であったらしい。俵は既に跳んでいた。


「ぐあああああああああああああああっ!!!!!」

 フライングドロップキック、俵の巨体が軽やかに宙を舞い、揃えた両脚で事故物件一級建築士の背を思いっきり蹴り飛ばした。

 衝撃でトラックに撥ねられたかのように、事故物件一級建築士の身体が宙に放られた。その手からスマートフォンが離れ、地面に叩きつけられる。ヒビの入ったスマートフォンの画面には、まだマーキュリー・メリーさんの名が表示されていたが、メリーさんからの呼びかけは事故物件一級建築士の悲鳴によってかき消された。


「……散々、人を苦しめといて自分が痛いのはイヤか?」

 フライングドロップキックの反動を利用して俵は猫のように空中で回転し、両足から地面に着地すると、事故物件一級建築士のスマートフォンを思いっきり踏み潰し、着信拒否をした。


「東城ォ……ッ!俵ァ……ッ!」

 顔面からコンクリートの地面に叩きつけられた事故物件一級建築士が立ち上がり、血走った目で俵を睨め上げる。睨み続ければそれだけで人を殺すことが出来そうな、凄まじい憎悪の視線であった。

 睨むだけで事故物件一級建築士はまだ動かない、俵もまた動かない。

 明子を背にその視線から守る盾のように、俵は立っていた。


「俵さん……」

 明子は俵の横に立ち、共に事故物件一級建築士の憎悪の視線を受けた。

 いや、俵が遮っていたのは事故物件一級建築士からの視線ではなく、彼に向けられた視線なのかもしれない。そう思えるほどに、明子の目は怒りに燃えていた。

 

「アイツを……」

 そこから先の言葉を、明子は口にしなかった。

 たった一言、返事に相応しい言葉がある。心の底から思った真実の言葉がある。

 その言葉を明子は返せなかった。俵という優しい男にそんなことはしてほしくなかった。だから、その代わりに明子は言った。

 瞳を潤ませて、迷子になった子どものように俵を見上げて言った。


「思いっきりぶん殴って下さい……!」


 その言葉が開戦の合図だった。

 刹那よりも短い僅かの時間、俵の意識が明子に向く。

 普通の人間ならば、それを隙とは言わない。認識することさえ出来ないほどの短い時間であったが、事故物件一級建築士のその僅かな時間を捉え、それを隙と見てスマートフォンを明子に向けて投擲した。空気を切り裂きながらスマートフォンは明子の元に亜音速で飛来する。人間の目に留まる速さではない。明子を狙った攻撃を俵は咄嗟に右腕を伸ばして庇った。その太い腕にスマートフォンが突き刺さる。だが、スマートフォンの投擲はその一発に留まらなかった。二発、三発、四発――事故物件一級建築士はひたすらに明子を狙い続けている。


『わたし、マーキュリー・メリーさん。今……』

 スマートフォンからメリーさん達の声が響く。

 それと同時に、事故物件一級建築士も駆け出した。

 メリーさんは待たない、というよりも待てない。時間稼ぎをしている余裕はない。俵にスマートフォンから庇わせると同時に、自身の渾身の一撃を俵に見舞う心算である。二発目、俵の手の平に。三発目、俵が明子を伏せさせて、スマートフォンは空を切る。四発目、明子の足元を狙ったものだ。これは俵の右の太ももに刺さった。五、六、七、八、九――事故物件一級建築士が俵の前に立ったのは十発目の着弾と同時だった。

 十発目は俵の頭部に向かって、飛来していた。

 明子を庇わせて、庇わせて、庇わせて、そういうリズムを作ったところで、俵自身を狙う。避けても、受けても、当たるならば尚良い。俵のリズムが崩れたところを撃つ、そう事故物件一級建築士は決めていた。自身の手刀で心臓を抉ってやろう、事故物件一級建築士はそう思った。普通の人間ならばとても出来ないような攻撃を事故物件一級建築士は行える。


 メリーさん、地縛霊、河童、ポルターガイスト、そしてタワマンロボ、今日一日で様々な怪現象が俵達を襲ったが、最後の最後で牙を剥いたのは――いや、今日の出来事は最初から人間によるものだった。

 十発目のスマートフォンが俵の頭部に着弾し、その右目に深く突き刺さった。

 どのような怪現象よりも人間が一番恐ろしい。それを証明するかのように――俵の心臓を抉らんとする事故物件一級建築士、だが、その途中で不思議なことに気づいた。俵の右腕が無いのだ。何故か、疑問の答えはすぐに出た。あまりにも速すぎたために、その拳が見えなかったのだ。自身の顔面に俵の拳がめり込んでから、ようやく事故物件一級建築士はそれに気づいた。


 なるほどな、と事故物件一級建築士はどこか他人事のように思った。

 最初から決めていたのだろう。自身に突き刺さった数多のスマートフォンを一切意に介することなく、それどころか右目が失われることすら気にせず、僕が目の前に立ったらその瞬間に渾身の右ストレートを打つと。僕を思いっきりぶん殴ると。


 でも大丈夫だ、と事故物件一級建築士は思った。

 さっき、鳩尾を思いっきり殴られた時はとんでもなく痛くて、考えることすら出来なかったけれど、今度はちゃんと考えることが出来ている。僕を祝福するような綺麗な青空が目の前に広がっている。タワーマンションは空に近いからな、その分、空がよく見えるな。雲一つ無い青い空に、俵と東城の頭が浮かんでいる。


 ん?見え方がおかしいな。まるで僕が地面に寝そべって、二人を見上げているみたいだ。敵を見上げるなんてゴメンだ。見下すのが良い、だからタワーマンションを事故物件にしてやったのに。って、ああそうか……見上げているみたい、じゃなくて見上げているのか。俵の一撃で地面に倒れてしまったんだな。起き上がらないといけない。戦いは続いているからな。


 あれ、おきあがれないぞ。

 どうしたんだろう。

 どうにもちからがはいらない。

 あれか、たわらのいちげきがあまりにもすごすぎて、あのいっぱつでもううごけなくなってしまったのか、ぼくのからだは。


 こまるな

 もっとひとをころしまくってあれみたいになりたいのにな

 あれになれたらきもちいいんだろうにな

 どうにかたちあがってふたりをころしてつづきをやりたいな

 あしにちからがはいらない

 うでもだめか

 ゆびさきがひくひくとうごくぐらいだ

 じゃあだめだな

 ぼくをころすにしてもころさないにしても

 ぼくがうごけないあいだにこのたわーまんしょんはかいたいされてしまうだろう

 それじゃあだめだ

 それだけはだめだ

 どこかうごくところはないかな

 は

 はだ

 ははうごくぞ

 ああよかった

 はがうごくならまだできることがある

 ああ

 めりーさんがきた

 よかったよかった

 じかんをかせいでくれよ


 事故物件一級建築士は歯に力を込めた。

 思うように動かない、ただ僅かな力でひたすらに歯で自身の舌を押し続けた。

 舌に血が滲み、それでも事故物件一級建築士はそれをやめない。

 全ての力を振り絞って、事故物件一級建築士は舌を噛み切った。


 こうして『入居者の終の棲家になるタワー』の最後の入居者は死んだ。


 ◆


 死んでも続きがある――そんなことをイヤというほど思わされる一日だった。あの世があるのかはわからないけれど、少なくとも幽霊は実在していて、死んだ後にも続く命がある。

 けれど、やっぱり死んでしまっては終わりだ。


「殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す」


 メリーさん達との戦いを終えた私達が見たものは、事故物件一級建築士の死体、そして……事故物件一級建築士の幽霊だった。

 人を殺し、その死を理不尽に利用してきた事故物件一級建築士は最期、自身の死すらも利用しようとしたのだろうか、だったら……これ以上に皮肉なことはないと、私は思った。

 目の前の幽霊に生前の事故物件一級建築士の理性や悪意と言ったものはなかった。あったのは理不尽な憎悪と殺意だけで、事故物件一級建築士が第二の生として死ぬことを選んだのならば、少なくともその目論見は大外れだったことになる。


「……馬鹿だな」

 憐れむように俵さんが言って、俵さんが思いっきり事故物件一級建築士だった悪霊を殴った。

 その一発で、悪霊は消え去ってしまった。

 あまりにもあっけない終わりだった。

 けれど、もう私にとってはそんなことはどうでも良かった。


「俵さん……少しだけ、私を一人にしてくれませんか?」

 俵さんの返事を待たずに、私は言葉を続けた。


「少しだけ、家にいたいんです」

 もう誰もいない家に。


【つづく】

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