12.理想の家
◆
地上からはこの部屋にある生活の灯が見えるのだろうか。
この部屋のガラスウォールから地上を見ても人の姿を認識できないのと同じみたいに、もしかしたら地上からこの部屋を見上げても、誰か人がいるかどころか、部屋の電気がついているかどうかすらもわからないのかもしれない。
だとしたら不思議だな、と思う。
確かにここにいるのに。
「座って、座って」
そう言って、パパが私に椅子を勧めてくる。
思い出の中の声と何一つ変わらない愛情に満ちた声。
子供の頃から優しくて、私が大人になった今もちっとも変わらない。
「今日はパパが料理を作るからね」
そう言って張り切ってキッチンに向かうパパを見て、ママが呆れたように言う。
「パパったら普段は料理なんてしないくせに、こういう時だけ張り切るのよ。けど、作るだけ作って後片付けは私に、なんてことになったら……」
もう離婚ね、そう冗談めかしてママが笑う。
「ところであったかいお茶と冷たいお茶、どっちが良い?」
「冷たいのでいいよ」
「が、って言ってよ」
「冷たいのが良いな」
「よろしい」
そう言いながら、ママが冷蔵庫からアイスティーを取り出して、グラスに注ぐ。
ティーポットの底には、麦茶のティーパックみたいに紅茶のティーパックが沈みっぱなしになっていたけれど、温かい紅茶を入れる時みたいに完成したら取り出すのが正解なのか、最後まで入れておくのが正解なのか私にはわからない。もっとも途中で取り出さないといけないものでも、ママは「飲めるんだから良いでしょ?」と言ってティーポットに沈めておくタイプだ。私も多分そうする。
「お茶請けにちょっと良いクッキーを買ってきたんだけど……」
ママがそう言った後、ちらりとキッチンを見やれば、視線の先にはステーキ肉と悪戦苦闘するパパ。
「お肉を残すとあの人が拗ねちゃうから、後にしましょうか」
「うん」
無糖のアイスティーを飲みながら私は頷く。
「あっ」
「えっ?」
「ごめん、甘いの忘れてたわね」
そう言って、砂糖を取りに行こうとしたママを制して私は言う。
「別に甘くしなくても飲めるよ」
昔は紅茶にミルクと砂糖をたっぷり入れて飲んでいたけれど、それも高校生までのことだ。甘いほうが好きだけれど、今となってはカロリーの方がよっぽど気になる。
「いいからいいから、今は私達だけなんだから」
けど、ママにとっても私はいつまでも子供で、私が大人ぶって無理しているだけだと思っているのだろうか。パックのミルクとガムシロップを私の前に置く。
「本当にいいって」
「そう?後ろでも向いてようか?」
「……別に見られるのが恥ずかしいわけじゃないから」
この家に住みたいか、パパとママの二人の家に帰りたいか――そういうわけじゃない。私には私の生活がある。けれど、なるべく二人には会いに行ったほうが良いのかもしれないな、と思った。
長い間会っていなかったから、最後に会った時、いや、その思い出すら曖昧になって、もっと子供の頃のイメージのままで留まっているのかもしれない。もっと二人にあって思い出を更新していかなければならない。いつまでも子供扱いされたままでも困る。
「本当に良いの?甘いの好きなのに?」
「別に嫌いじゃないけど……」
本当に困った。
けど、ギャップはこれから埋めていけば良いか。そう思い直す。
まだ二人には会えるんだから。
「アキちゃん、お肉焼けたよ」
キッチンから和牛の放つ濃厚な香りが漂ってくる。
良いお肉を使ったシンプルなステーキは、素材の力に全てを託したパパの得意料理だ。焼き方をどこまでこだわっているのかはわからないが、良い素材を使って失敗しない程度に焼いているので、普通に美味しい。付け合せはない。ステーキとご飯、それだけだ。
パパが調理を終えたフライパンから皿にステーキを移そうとした瞬間、室内が揺れた。
この家はこんなにも空に近いのに、不思議だなと思った。
けど、どれだけ建物を高く高く伸ばしても地面からは逃げられないもんなという変な納得もあった。
キッチンを見る、火は出ていない。
調理が終わったから火を消したのか、それとも隣の電気調理用のプレートを使ったのか、どっちでも良いけど、とりあえずは安心だな、なんてことを考える。机の下に隠れないとな、って思うけど、どうも他人事のように思えて、それよりも刃物とか色々あるからパパのほうが不安だなと私はキッチンのパパに呼びかける。
「パパ!危ない!」
室内が揺れる。
強い揺れで、ステーキを焼いたばかりのフライパンが滑り落ちた。
ママも私も室内ではスリッパを履いているけれど、パパは家の中では裸足だ。
私がパパに「なんでスリッパを履かないの?」と聞くと、パパは「だって裸足のほうが楽じゃないか」と悪びれる様子もなく言う。
私を子供扱いするくせに、自分自身も子供みたいな人だ。
ママがパパにスリッパを履くように怒っている姿を見たけれど、いつの間にか、ママも諦めてしまったみたいで、結局私の記憶の中のパパはいつも、そして今も、ペタペタと音を立てながら室内をペンギンみたいに歩き回っている。
そんなパパの足にフライパンが落ちた。
想像していた悲鳴は無かった。
パパは何も気にしていない様子で、フライパンを拾い上げる。
「大丈夫!?」
「なにが?」
平然とした顔で、パパが私を見た。
記憶の中のものと全く同じ笑顔で、ニコニコと笑っている。
「ほら、早くお肉食べましょ」
ママも、パパの事を特に気にする様子もなく、ニコニコと笑っている。
何もなかったかのように。
パパがステーキを皿に移す。
何もなかったかのように。
「……ひっ」
私はなんで忘れていたんだろう。
パパも、ママも、死んでいたのに。
――もっとも、殆どの悪霊は部屋から一歩も出ることが出来ない。悪霊は基本的に死んだ場所や物に取り憑くだけで指向性が無いからね。相手が呪われに来ることを待ち受けることしか出来ないんだ。けど、怪異にするという形で指向性を与えてやることは出来る。
俵さんから聞いた事故物件一級建築士の言葉を、私は思い出していた。
――妖怪、怪談、都市伝説、ネットロア……本当にあったから人間が語ったのか、それとも人間が語ったから生じるようになったのか……いずれにせよ、人間のよく知るそういう話は強い力を持つ、それこそ悪霊がその物語に取り憑ける程にね。
メリーさん、きっと沢山の人が知っている都市伝説だ。
河童という妖怪のことは、きっと日本中で知らない人の方が少ないだろう。
そういう物語に悪霊は取り憑いた――らしい。
じゃあ、パパとママは悪霊になったの?
それとも。
「アキちゃん」
「アキちゃん」
私の記憶の中のものと一切変わらない顔で、二人が笑みを浮かべている。
他愛もない、二人が生きてくれていればいい、そんな想像に――二人は取り憑いたの?
私は……どうすればいい?
◆
「すごいね」
周囲のオフィスビルを掴まんとするタワーマンション式アイアンクロー。
運行する電車をヌンチャクとして掴みにいかんとする物理引っ越し
『入居者の終の棲家になるタワー』という名の不動産は今や動産であった。ただ人を害するためだけに軽やかに動き続ける。
「ぐっ!」
「おっ!」
「はっ!」
その殺人的増改築を止めるために、俵はひたすらに動き続けている。
拳が放たれれば全身で受け止め、歩行をしようとすれば、足で応じてその歩みを止めんとする。
圧倒的な質量さである。
そもそも、止められていることがおかしい。
蟻が一匹で象の進行を食い止めているのに似たものがある。
「霊能力とか以前の問題として、こんだけの質量の攻撃を受けたら死ぬと思うんだけど」
「柔道を習っててな、受け身は得意なんだ」
軽口を叩いて、次の攻撃を妨害しようとせんとする俵。
その息は荒い。おそらく骨も折れている。
なにより全身が血まみれであった。
だが、その程度で済んでいることがおかしい。
本来ならば、一撃一撃が肉塊になっているほどの攻撃である。
『入居者の終の棲家になるタワー』の殺人建築は伊達ではないのだ。
「へぇー、凄いな。この戦いが終わったら私もやってみようかな、柔道……」
俵の軽口に苛立つ様子も見せず、事故物件一級建築士はローキックを放たんとした。
ローキックといっても、『入居者の終の棲家になるタワー』にとっての下段である。大抵の人間、いや、それどころか低階層の建築物にとってはその一撃で薙ぎ倒されてしまうほどの回し蹴りである。
その放たんとした蹴りが途中で止まっている。
俵が何かをしたわけではない、かといって事故物件一級建築士が止めたわけでもない。
「あー、これだ」
事故物件一級建築士の困ったような声。
「なるほど、アンタはあの部屋を腫瘍って言ったが……こんだけの事故物件、ここの住民の気持ちが一つにならないと動かせるものじゃない……あの部屋があるせいで、そういう誤作動が起きるってことか」
「そう、だから……私にとっては彼女を殺すことが最善の策だった。けど、それはもう諦めた」
事故物件一級建築士が独りごちる。
「彼女が頑張ってあの悪霊共を追っ払ってくれたら……きっと、この家もフルパワーを出せると思う」
タワマンロボの窓が一斉に開き、悪霊たちが俵に投石を開始する。
遠距離攻撃対応住宅である。
「良かったな、俵。私と君の目的は一致しているようだ」
「クソがッ!」
俵は獣のように唸った。
【つづく】
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