10.帰宅


 ◆


 独りで非常階段を上がっている。

 百メートル……それだけの距離を真っ直ぐに進むなら二分もかかることはないのに、百メートル分だけ地上から離れようとすると、その何倍もの時間がかかる。

 空気は淀んでいて重苦しく、まるで冷蔵庫の中にいるように冷たい。

 手摺を掴み、そろりそろりと慎重に私は非常階段を上がっていく。

 寒いのに汗が止まらない。

 粘ついた汗は私の肌をさらりと伝って落ちることはなく、鉛のような重量感と共にただただ不快感を増していくばかりだ。


「にぇっ!」

『入居者の終の棲家になるタワー』が揺れる、私の口から可憐な悲鳴ではなく、高所からの着地に失敗した猫のような奇声が漏れた。私は手摺を強く握りしめ、襲い来る衝撃に備えた。

 今、私は巨人の体内にいる。

 比喩表現なのではなく、『入居者の終の棲家になるタワー』は巨大な人型兵器に変形し、この東京を破壊せんと動き始めた。

 そして、さっきまで私と行動を共にしていた俵さんは被害を抑えるためにたった一人で巨大タワーマンションロボと戦おうとしている。

 ふざけている。冗談にしか思えない。もしも私がそんな様子をテレビで見ていたら笑ってしまっていたに違いない。

 けれど、そんな馬鹿げた状況も、巻き込まれてみると恐怖にしかならない。滑稽さというヴェールで覆い隠したところで、痛みも苦しみも死も真実だからだ。


 揺れが収まるのを待って、私は再び階段を上がっていく。

 俵さんならば、揺れを気にも留めず階段を軽やかに駆け上がって行くのだろうか、なんてことを考える。もしかしたら、ジャンプで天井を破壊しながら直接屋上まで跳んでいくんじゃないか、なんてことを考えて少しだけ笑う。


 階段を上がる。

 照明は最低限のもので、ダラダラと続く非常階段はどこまでも薄暗い。

 視界の先、見えない部分に何かが潜んでいるのではないかと、おっかなびっくり上がっていく。

 私の恐怖を振り払ってくれた俵さんは、誰かの恐怖を振り払うために外で戦っている。

 私は恐怖にビクビクと震えながら、私は私の戦いをする。


 ◆


「私があいつをぶん殴りたいんです」

 そう言った私を見て、俵さんは「じゃあもう、やるしかねぇな」と言って笑った。

「ま、元々アンタだって戦いに来たんだもんな。アンタに内側で暴れてもらって……俺はタワマンロボと戦う……」

 俵さんは自分で言った言葉に釈然としない表情を浮かべた後、『俺はタワマンロボと戦う……?』と何度か同じ言葉を繰り返した後にようやく飲み込んだようだった。

 実際、私が俵さんの立場だとして巨大人型殺戮タワーマンション兵器と戦うとなって、そう簡単に飲み込むことは出来なかっただろう。


「とりあえず、アンタには実際に奴をぶん殴るその前にやって欲しいことがある」

「やって欲しいことですか?」

「最初の目的通り、アンタの家に行ってほしい。そこで何が起こるかはわからないし、俺としても無事を保証してやることも出来ない……ただ、アンタを殺したい理由は間違いなく、そこにあるはずだ」

 少なくとも、どっかそこらへんの部屋には散らばっていないだろうよ。そう言って俵さんが笑う。私もその冗談に無理に笑ってみせる。


「こいつを持っていってくれ」

 そう言って、俵さんが私に何かを差し出した。

 それは十個の鉄の指輪だった。宝石も余計な装飾もない無骨なもので、輪に読めないような小さい文字でびっしりと何かしらの呪文が書いてある。

 おそらくは何かしらの除霊アイテムなのだろう。


「俵さん、これって……」

 俵さんは私の指に鉄輪を一つ一つ嵌めていく、指輪を渡されたのは人生で初めてだが、おそらくこれ以上に無骨な指輪の嵌め方は無いだろうな、と思った。


「ああ、これを着けていると普通に殴るよりも攻撃力が上がる」

 思っていたものと違った。


「多少の魔除けぐらいにはなるが……まぁ、基本的にはアンタのパンチ力に期待だな」

「頑張ります」

 と言っても、自分の人生で誰かを殴った経験は無い。

 打てるとしてもヘニョヘニョのパンチだけだろう――それでも、鉄をつけているのだから、おそらく威力は鉄だ。そう祈るしかない。


「俺にくれてやれるのは、後はコレぐらいだな……」

 私に鉄輪を嵌め終わった俵さんは私の手を取って、拳を握らせた。丸めた四つの指の上から親指を重ねるように握る。それが正しい拳、正拳なのだと俵さんは言った。「脇を締めて、真っ直ぐに打つ」

 俵さんの言葉に従って、私は真っ直ぐにパンチを放った。

 のっそり、そんな言葉が似合いそうなゆっくりとしたパンチが放たれる。


「任せたぜ」

 伸ばした私の正拳に、俵さんが拳を握って軽く合わせて、言った。

 そして、俵さんは私に何かを握らせて、出口へと駆ける。

 俵さんを目で追う、分厚い背中だった、この世界のどんな災厄からも守ってくれそうな強靭な盾だ。

 その背に別れを告げて、私は前に進んだ。


 ◆


 ひたすらに階段を上がり、私はとうとう最上階に辿り着いたようだ。

 非常扉を開いて、どこか高級感溢れる廊下へ躍り出る。

 戦いのためか、『入居者の終の棲家になるタワー』はひたすらに揺れたが、それ以外に私の行く手を妨げるものは無くて、不自然なほどだった。


 事故物件一級建築士が運転に(果たしてタワーマンションの邪悪な管理に運転という言葉が相応しいのだろうか)集中しているために、私に手を出さなかったのか。それとも何か理由があって出さなかったのか。あのエレベーターだけがトラップで幽霊の品切れを起こした、であるとか、あるいは私の家の前にびっしりと警備悪霊が待ち受けているとか。


 どうせ来るならばと待ち受けている……私はその想像にぶるりと震えた。

 私は深呼吸をし、拳を握る。小さい私の手の中に戦う力を握り込む。


 通路の最奥、私の部屋の前に緑色の何かが座り込んでいる。

 人型の何かだ、その背には亀のような甲羅を背負っている。

 黄色い嘴があり、まるで落ち武者のように眩い禿頭の両隣に緑の髪が垂れている。


「……ッパ!」

 奇怪な笑い声が響き渡った。

 河童だ。

 その外見と、そしてなぜだかわからないが魂が直感した。

 おそらくはメリーさんのような怪異の部類なのだろう。


「オメェが、例の女かッパ……」

 醜悪な顔で河童が嘲笑う。

「オラァ、元々は迷惑系ユーチューバーをやっててよぉ、全員が死んだこのタワーマンションに凸してみたんだがッパ……殺されて、このザマッパよ……もう人間の頃の記憶も薄れてきたッパ……もっとも、人殺すのは楽しいから良いッパがねぇ……」 

 そう言って、河童が腰を深く落とした。


「相撲を取って、負けた相手の内臓引きずり出して殺すッパ……人生……いや河童生にこれ以上幸福なものは無いッパ……さぁ、相撲を取――」

 悲鳴を上げる代わりに、私は俵さんから受け取ったものを取り出した。

 黒光りする拳銃、最後に俵さんから受け取ったものだ。

 私は反動に備えて、両足を広げ脇を締めて真っ直ぐに撃った。


「ッパ!?」

 吐き出された鉛玉が河童の頭部を吹き飛ばした、おそらくは銃弾も特別製なのだろう。二度撃ちダブルタップで心臓部にも銃弾を撃ち込むと、手の痺れる感触に閉口しながら、私は拳銃を仕舞い、河童の死体を踏み越えて進んだ。


 東城、その表札はまだ残っていた。

 結局、一度も訪れることのなかった私の家だ。 

 ドアノブに手をかける。

 思わず悲鳴を上げてしまいそうなほどに冷たい。

 重いのはドアノブのせいか、それとも私のせいなのか。


 重く、軋んだ音を立てて扉が開く。

 私はとうとう、初めての帰宅を果たした。


【つづく】

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