5.内覧準備
◆
――アキちゃんも一緒に住もう。
あの『入居者の終の棲家になるタワー』の最上層の部屋を購入したパパが、電話越しに嬉しそうに私に言ったことを今でも覚えている。
仕事帰りのパパが私のためにケーキを買って帰って来てくれた時と何も変わらない口調で、就職しても、一人暮らしを始めても、親にとって私はいつまでも子供なんだなと思わせてくれる。
――でも、東京の方がいいわよ。お仕事だってきっと何か見つかるし、近くにいてくれたら結婚の面倒だって見れるし……
パパに続いてママがそう言って、私を誘ってくる。
私のことを愛してくれているのだと思う、そこに関しては疑いようがない。
けど、自分の愛を通すことばかり考えていて、私のことは考えていないんだなとも思う。
私はとっくの昔に成人で、今の生活だってあって、いつまでもパパとママの可愛い子供じゃないんだ。
――いや……いいよ……
そういうことを私は上手く言えないで、拒絶の言葉をふわりとした曖昧に包み込んで投げ返した。私も私で年齢を重ねるばかりで、子供の頃と一切変わらなかったのかもしれない。
――とにかく一度はこっちに帰っておいで。
――……うん。
それが私とパパとママとの最期の会話だった。
一度も帰ったことのない家に帰るという約束は結局果たされないまま、パパとママは殺されて死んだ。
それが去年のことだ。
相続した遺産は親が殺された部屋と大量のお金、使われていないし、使われることもない部屋のために維持費と固定資産税を払っても不自由しないぐらいの金額だ。
そして親が殺された部屋に一度も訪れることの無いまま、私は未だに静岡県の安くて大して広くもないマンションに住んでいる。
二人が殺されたことはちゃんとわかっているつもりだ。
葬式にだって出た、叔父さんに手伝ってもらったけれど喪主を努めたのは私だ。
死体は無かった。
とても見せられるものではなかった。
いい加減に二人が最期に過ごした家に行かなければならないと頭ではわかっていた。
あの部屋にはお金以外の遺品がある、それを整理しないといけない。
それに事故物件と化しても一応はタワーマンションの一室だ、売却するにしても、持ったままにしておくにしても、一度は見に行く必要がある。
頭が考えることに心はついていかなかった。
日々の忙しさにやられてしまったのかもしれない。
殺人現場に行くことが怖かったのかもしれない。
単に億劫だったのかもしれない。
いつかやらなければならないことを伸ばし伸ばしにする日々の中で、私は思う。
ある日、電話がかかってくる。死んだはずのパパとママからの電話だ。
パパもママも実は生きていて、私が一度も行ったことのない広くて高いところに暮らしている。
そして、私に言うのだ。一緒に暮らそう、と。
私は曖昧にその言葉を拒否して、そしていつか会わないとなと思いながら、先延ばしにする。
犯人は未だに見つからない。
死体だって見ていない。
そんなフワフワとした死だから出来る想像だ。
そういう他愛もない想像は、誰も住んでいない空っぽの部屋を見たら消えてしまう。
◆
「あの部屋……アンタが相続していたのか」
「はい……」
俵さんに聞かれたこと、聞かれなかったこと、他愛もない想像まで私は全部話した。言葉は拙く、途切れ途切れで、それでも俵さんは顔をしかめるでもなく、最後まで私の話を聞いてくれた。
そして、「俺もちょっと調べただけだから、ハッキリとしたことは言えないが……」と前置きをして俵さんは言った。
「『入居者の終の棲家になるタワー』は分譲賃貸マンション……らしいな、基本は分譲だが、高い買い物っていうのは中々出来るモンでもないからな。特に事故物件後は完全に賃貸に切り替えちまったらしい……賃料六万円はヤケクソも良いところだが……それでも、都心に墓石を建てておくよりはマシだ」
それでも誰も住んじゃいないし、これからも住みそうにないがな。俵さんは苦笑気味にそう言って言葉を続ける。
「で、こっからは全部俺の想像になるが……なんで賃貸に切り替えられちまったかといえば、購入された部屋の所有者が全員死んで……相続した奴だって、そんな家持ってたってしょうがないと思って売ったか、あるいはその部屋に住んで、また死んじまったか……いずれにせよ、部屋は全部空くことになった。アンタの両親の部屋を除いてな」
「……私が相続したからですね」
「まあ、俺の想像の話だ。もしかしたら他にも権利上の所有者はいるかも知らん。ただ、間違いなく言えることは一つ……アンタはあの非道建築タワーマンションに部屋を持っている」
「私が狙われた理由ってそれなんでしょうか……?」
「……わからん」
苦虫の代わりにサラダチキンを噛み潰しながら、俵さんが言った。
「所有権の話をするっていうなら、そもそも『入居者の終の棲家になるタワー』にはオーナーがいる」
「その人が黒幕だったというのは……?」
「一回アンタのことを知らないか聞くために会ったが、あのおっさんが黒幕なら――」
俵さんが私のウエストよりも太い腕に力こぶを作って言った。
「――俺がもうぶん殴って解決してるよ」
にかりと笑って、俵さんが言った。
私は大樹を想像した、ど迫力の枝ぶりの大樹だ。
どんな酷い雨が降っていても、その木の下に避難すれば、降り注ぐ雨粒の全てから守ってくれるだろう。
そんな頼もしく力に溢れる言葉だった。
「その、俵さんはこれから……あのタワーマンションに行くんですか?」
「おう、行くよ」
軽い口ぶりだった。
多分、俵さんは近所のコンビニに行く時も同じように言うのだろうな、と思った。
おそらく、遠く離れた国に行く時だって、そういう風に言う。
「あの……」
そう言ったきり、私はしばらく黙ってしまった。
頭の中で言うべき言葉はハッキリとしている。
けれど、実際に口に出すための勇気が足りなかった。
「……私も連れて行ってくれませんか?」
私がその言葉を口にするまでにどれほどの時間がかかっただろう。
けれど、俵さんは私が言葉にするまでの時間を黙って待ってくれていた。
「あの非道建築タワーマンションで何が待ち受けているかはわからん、もしかしたら俺でも腰を抜かすような恐ろしいものが待っているのかもしれない……悪いが、アンタの安全は保証出来ない」
俵さんがそう言うのは当然だろう。
けれど――
「……あそこで両親が殺されたんです」
「黙って待ってられねぇよな」
同じタイミングで出した言葉に、私と俵さんは顔を見合わせる。
「家族を殺した上にアンタの命まで狙ってくるなんてナメた奴がいる……一発ぐらいぶん殴らないと気が済まねぇか」
「なぐ……」
私は自分の細い腕を見た。
幸福と言うべきか、あるいはこの場合は不幸というべきか、暴力とは無縁の人生を送ってきた。
細い指をグッと固めて、私は拳を作る。
「殴るかどうかはわかりませんけど……でも……行きたいんです……」
おずおずと物をねだる子供のように、私は言った。
わかっている。
ついていったところで足手まといにしかならない。
俵さんのように、相手を思いっきりぶん殴れるワケではないし、おそらく自分の身を守ることも出来ないだろう。メリーさんのような怪異や悪霊に出会っても怯えるだけだろう。
けれど、行かなかったら後悔する。
ただ、それだけの理由で私はあの場所に行くことを望んでいる。
「じゃ、背中はアンタに任せるぜ」
「へっ……?」
私は思わず戸惑いの声を上げた。
「なんだよ、行きてぇって言ったのはアンタだろうが」
「いや、そうですけど……」
どうやら、私もついていって良いらしい。
あんまりにもするりと呑み込まれるから、私のほうが困惑してしまった。
「それで……あの……お金のことなんですけど」
「金?」
俵さんが虚を突かれたように言った。
「いや、その……俵さんが私のことを守ってくれて、それでこれからのことも考えると正式にお金を払わないといけないなって思うんです。今手持ちのお金がめちゃくちゃあるってワケじゃないし、そもそもこういうの初めてで適正価格みたいなの全然わからないんですけど、でもかならず払いますので……だから」
「ああ……」
納得したように俵さんが頷く。
「一万円くれよ、帰りは新幹線に乗りたいんだ」
「いっ……一万円……?」
適正価格はわからない。
ただ、あまりにも安すぎるように思えた。
帰りに新幹線を使うなら、新幹線代だけで六千円弱で残りは四千円とちょっと。
コンビニで四時間バイトすれば稼げるような金額だ。
「始発でアイツら殴りに行こうぜ」
◆
「最強の事故物件について真剣に考えてみたよ」
時間は夜と朝の狭間、もっとも夜の闇が深い頃である。
その夜に包まれた東京の夜景を、本来入れないはずの『入居者の終の棲家になるタワー』の屋上から眺めながら、事故物件一級建築士はワインを片手にスマートフォンで話している。
地上百メートル、夜闇をねっとりとまとった強い風が吹いている。
『フム?』
電話口の相手のイントネーションは日本語話者のそれではなかった。
英語圏の人間なのかもしれない。
「入れば死ぬ家、近づくだけで呪われる家、近づくことすら出来ない家……いろんな事故物件を巡った結果、僕は一つの答えに辿り着いた」
『聞カセテ下サーイ』
「百メートルあるタワーマンションが人型に変形して、全てを蹂躙して回るんだよ。それが最強の事故物件さ」
東城明子、そして俵耕太を待ち受ける恐るべき悪意を、二人は未だ知らない。
【つづく】
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