4.心理的瑕疵物件における経済的影響


 ◆


 じゃっ。

 事故物件一級建築士の声と同時に小銭の擦れ合うような音がした。

 それと同時に感じるズボンのポケットの中の重み。


「零……零……零……ここは無料でようやく人が住むような住宅……それだけのはずですッ!」

 自身がさっき下した評価をやからは何度も口に出して繰り返す。

 そうでなければ壊れてしまいそうだった。

 耳の痛みも忘れるほどの恐怖であった。

 先程まで信じていたものがあっけなく崩れ去ろうとしている。

 だが、不動産鑑定士としての経験が――現実のほうが壊れてしまったのだと族に告げていた。


「確かめてみれば良いよ」

 相変わらず穏やかな声で事故物件一級建築士が言った。

 彼がどのような顔をしているかはわからない。

 自動ドアには撃ち込まれたスマートフォンによって、蜘蛛の巣のような亀裂が生じている。

 族は振り返らない。

 自身を食い殺す猛獣が背後にいるとわかって振り返ることの出来る人間はそうはいない。

 ただ、見なくてもわかることはある。

 おそらく、事故物件一級建築士は笑っているのだろう。


「マイナス……」

 そう口に出した後、自身でも信じられぬような顔を族はした。


「六千二百円……」

 震える指先がポケットの中をまさぐる。

 硬貨の冷たい感触。

 族はポケットの中に硬貨を入れたりはしない、硬貨は財布の中にしっかりと入れて、鞄の中にしまっている。

 だというのに、存在しないはずの硬貨の感触が――族のポケットの中にある。


「そっ……そんな……馬鹿なことが……」

 意を決してポケットの中から手を引き抜くと、族の手の中には十数枚の硬貨があった。五百円玉が十二枚、そして百円玉が二枚。


 不動産鑑定士としての経験はそれをずっと自身に告げていた。

 あまりにも度を超えた事故物件であるがゆえに、もはや家賃が安いだけに留まらない――存在するだけで収入が発生するなどと。

 それもこれほどまでに迅速な振込が行われるとは。


 わなわなと震える族の両手から硬貨が床に落ちて、甲高い音を立てる。

 ちゃおおん。ちゃおおん。ちゃおおん。

 悲鳴のような音だった。

 族の口の代わりに、族の手から放たれた悲鳴であったのかもしれない。


「このタワーマンションは……なんなんですか?」

 逃げ出したい、いや、そうしたいならばそうすれば良い。

 背後の男だってそれを咎めているわけではない。

 だが、足が動かない。

 今、族の足は自分自身のものではなかった。

 その腕もそうだ、その胴体も、そして首も。

 己の身体を支配するものは今、意思ではなく、意思なき恐怖だった。

 心臓は動きを止めていなかったが、恐怖から逃れられるならばその行き先が死でも構わないとばかりに早鐘を打っている。


 ただ相手に問うための舌だけが動いてしまった。

 不動産鑑定士として情報収集から逃げることは出来ないと思ってしまったのか、あるいは恐怖から逃げ出すために不動産鑑定士としての自分でいることを選んだのか。族の頭の中にその答えはない。自分自身ですらその言葉を発した後に、何故このようなことをしたのだろう、と思ってしまっている。


「聞いちゃうんだ」

 事故物件一級建築士は愉快そうに言った後、「いいよ」と笑った。


「事故物件の定義……君って多分、不動産鑑定士だからわかるよね」

「端的に言えば、事件性のある死因で前住民が無くなった家でしょうね……」

「そう、まあ孤独死で死体が部屋にこびりついた……なんてことがあったら、事故物件としては扱われなくても心理的瑕疵はあるだろうけどね」

 心理的瑕疵――不動産取引の際に心理的な抵抗感を生じさせる事柄をいう。

「この非道建築タワーマンションは事故物件になるべくして、僕が建築した」

「なるべくして……?」

 族の脳裏に、このタワーマンションが事故物件になったあの事件が蘇る。

 死者数三千人を超える惨劇。

 一年前、このタワーマンションの住民が一日で全員殺害された恐るべき連続殺人事件だ。

 そして、横ギロチンの勢いで超速稼働した自動ドア――もしや。


「このタワーマンション中にあのような罠が……」

 もしも、そうであるとしたら――文字通りの非道建築タワーマンションということになる。住民を殺すために生み出された建造物――賃料だって安くなって当然だ。


「住民完殺!このタワーマンションは三千人を超える死者の怨嗟渦巻く大島てるもドン引きの最強クラスの事故物件と成った!!君さえ良ければ二階から上も案内しようか?一部屋一部屋で悪霊と化した住民が今でも悶え苦しんでてウケるよ」

 悪霊――さほど、ホラーを嗜まない族でも知っている概念だ。

 それが実在すると唐突に言われて、しかし戸惑いはなかった。

 むしろ、他者の苦しみを心底愉快そうに語る事故物件一級建築士に対する恐怖が上回る。


「もっとも、殆どの悪霊は部屋から一歩も出ることが出来ない。悪霊は基本的に死んだ場所や物に取り憑くだけで指向性が無いからね。相手が呪われに来ることを待ち受けることしか出来ないんだ。けど、怪異にするという形で指向性を与えてやることは出来る」


 突き刺さったスマートフォンから、少女の声で謳う。

『私、メリーさんフェニックス……今、非常階段を駆け下りているの……』


「妖怪、怪談、都市伝説、ネットロア……本当にあったから人間が語ったのか、それとも人間が語ったから生じるようになったのか……いずれにせよ、人間のよく知るそういう話は強い力を持つ、それこそ悪霊がその物語に取り憑ける程にね」

 細く白い手が、族の顔を横切ってスマートフォンの通話を切った。

 そして、その指先がフォトに保存されていた動画を再生する。


『人間呪いたいか!』

『呪いたい!』

『人間殺したいか!』

『殺したい!』

『メリーさんになりたいか!』

『なりたい!』

『受話器百回素振り開始めい!!』

『はい!!』

 悍ましい映像であった。

 タワーマンションの個室で、竹刀を持った二メートルほどの古い外国製人形が何やら妖しげなモヤのようなものに対し、叫んでいる。そのモヤはありえぬことに返事をし、しかも受話器を持ち上げては下ろす行為を繰り返しているのだ。


「悪霊のエリートはこういう怪異に成って、このタワーマンションの外にも死と殺戮をばら撒く存在になる」

「……ッ!?」

「一箇所に怨嗟が集まっていると、悪霊は凄まじい速度で強くなっていくし……このタワーマンションの放つ瘴気は周辺の地価や賃料まで巻き込んでいくんだよ」

 道理でこのタワーマンションだけにとどまらず、周辺の地価まで下がっていたワケだ。

「いずれは東京……いや、この日本中がこの『入居者の終の棲家になるタワー』の心理的瑕疵を受けることだろうね」

 そうなれば間違いなく日本経済は破滅することだろう。

 しかし、それを知ったところで族にそれを止める術はない、せいぜいが警察組織に通報するぐらいだ。しかし悪霊を警察が信じるだろうか、事故物件一級建築士はタワーマンションを不法に占拠しているフシがあるが、おそらくは民事の問題になる可能性が高い。


「もっとも、それよりも早く日本が滅ぶのが早いかな……?」

「日本が……滅ぶ……?」

「君」

 愕然とする族の肩に事故物件一級建築士の手が置かれた。

 温度のない手だった。

 暖かくはない、しかし冷たいというわけでもない。

 ただほんの少しの重さだけがあって、それ以外にはなにも感じない。


東城とうじょう明子あきこさんという女性に知り合いがいるかな」

「い、いません……」

 東城明子――族に知る由はなかったが、この数日後、静岡でストロング・ザ・メリーさんとビッグ・ザ・メリーさんの究極メリーさんタッグに命を狙われることになる。


「そう。もしも知り合う機会があったら殺しておいてよ」

 どこまでも気軽な口ぶりだった。

 おそらく、コンビニに行く友人についでの買い物を頼むのもこれと同じ口ぶりで言うに違いない。


「じゃあね」

 背後にあった気配が遠ざかっていく。

 おそらく、事故物件一級建築士が去っていったのだろう。


「五千……一万……」

 それに伴って賃料が徐々に回復していく。

 それでも六十万に戻ることはありえないだろう。

 恐怖に支配されて棒のように固まっていた足から力が抜け、族はその場に膝から崩れ落ちた。

 生き延びた、生き延びたのだ。

 ワケの分からない恐怖から。

 安堵感が身体に満ち、足を動かす力が戻ってくる。

 自動ドアがゆっくりと開き、族は『入居者の終の棲家になるタワー』を後にした。


「族先生……ご無事でしたか……?」

「ああ……なんとかね、はかりさん……」

 族の瞳に映る周辺の地価も相変わらず安い。

 それでも、『入居者の終の棲家になるタワー』の内部よりはマシである。

 その安い道の先に待ち受けていた秤に体を預けるように族は倒れ込んだ。


「先生!?」

「すみません……もうこれ以上、動けそうにありません」

 弟子、そして依頼者にタワーマンション内部であった恐怖の出来事を如何に説明したものか、その懊悩を一旦捨て去って、ただ族は解放感に己の身を預けることにした。

 今はただ生還の喜びを感じていたい。


 ちゃおおん。

 硬貨の落ちる音がした。

「先生、あのタワーマンションの中で何があったんですか……?」

「秤さん……?」

「地価が急激に下がって……俺……」

 大量の十円玉を吐き出しながら、秤が倒れた。


 それと同時に、着信音が鳴った。



 ◆


「結局、メリーさんフェニックスをボコって……二人を病院に連れて行ったよ」

「結構近場にいたんですね」

「あの二人とは別口で調査を受けててな……ま、それでアンタのコトを知ったワケだが……」

 非道建築タワーマンション……恐ろしい場所だった。

 しかも、話の中の族さんが見たのはその周辺と一階のエントランスだけだ。

 上の階層にはさらに恐ろしいものが待ち受けているのだろう。

 だが、そんなコトよりも……


「私が狙われているんですか……?」

「間違いなく、な」

 俵さんが言う。


 私がメリーさんタッグに狙われたことは偶然なんかじゃなかった。

 私を狙う明確な悪意があったんだ。

 怖い。

 ただ、ただ怖い。

 身体が震えているのは外の寒さのせいじゃない、気温がどれだけ低くても心までを凍らせることは出来ない。

 それでも、私はほんの少しの勇気を振り絞って言った。


「なんで私が狙われているのかはわかりません……けど」


 俵さん、『入居者の終の棲家になるタワー』は私の両親が殺された場所なんです。


【つづく】

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