3.不動産鑑定評価
◆
非道建築タワーマンション、私の人生にこれまでも……そして、これからも関わってきそうにない不思議な言葉だった。
「非道建築タワーマンションっていうのは、というか……そのタワマンのバケモンが私を狙っているっていうことは私、まださっきみたいな目に……」
頭の中がぐるぐると混乱している。
ストロング・ザ・メリーさんとビッグ・ザ・メリーさんのタッグチームだけで十分すぎるぐらいに聞きたいことがいっぱいあるし、それに加えてこれから起こること、私を助けてくれた俵さんのこと、溢れ出しそうになるぐらいに疑問が湧き上がってくるし、今日は土曜日で良かったな、平日だったら仕事が大変だもんな。なんて無理やりに自分を日常に繋ぎ止めようとする馬鹿な考えまで浮かんできてしまって、何をどうしたものかわからなくなってしまう。
情報は整理できないまま、ただ、大切なことを思い出して私は深々と頭を下げた。
「というか……その……本当にありがとうございます!」
お辞儀の角度は九十度、私の頭と爪先を繋いだら美しい直角三角形が出来るだろう。
人に頭を下げることばかり上手くなっていく人生だけど、命の恩人に感謝が伝わってくれるなら少しは報われる。
「いやいや、頭を上げてくれよ」
俵さんが困ったように言った。
「まだ何も終わってないしな」
「その……えっと……私、何から聞けばいいんでしょう……?」
おずおずと顔を上げて、私は尋ねた。
俵さんは私よりも遥かに大きく、顔を見ようとするだけで自然に見上げることになる。
しかし、バカみたいな質問だ。
「ああ、説明できるだけのことは説明するよ」
そんな私を見て、バカにする様子もなく俵さんが笑う。
身体も顔もゴツゴツしているけれど、朝の訪れを太陽よりも早くに告げてくれそうな眩しい笑顔だった。
◆
暗い闇の中で、夜のコンビニは孤独にキラキラと輝いている。
夜闇の中でボヤッと浮かび上がるように輝いていて、まるで世界で一つだけ生き残ったみたいな施設みたいだ。
俵さんはコンビニの外壁にもたれかかり、私はその隣で縮こまっている。
私は温かいホットミルクティーを、俵さんは特大サイズのレジ袋を持っていて、その中にはスナック菓子やらおにぎり、サラダチキンなんかが中身がパンパンになるほど入っている。
「こんなところで悪いな」
ここらへんで二十四時間やってる店を知らないんだ、そう言って俵さんが笑う。
私だって知らない、夜に一緒にお酒を飲むような相手はいない。
「アンタの家に行くわけにもいかないからなぁ……」
「私は……」
いいですよと言いかけた私を制して、俵さんが言う。
「女の子の家に行くなんざ、俺の方が照れちまうよ」
それが俵さんなりの気遣いだったのか、それとも本当に照れくさかったのかはわからない。
「とりあえず、俺の名前は
アンタと同じだよ、そう言って俵さんが笑った。
「とりあえず、あのタワーマンションの話をするか」
◆
数日前、東京。
東京都内某所にその三十階建てのタワーマンションはあった。
東京の町並みを一望できる最上階の部屋ならば、月に六十万円の賃料は下らないであろう。
だが、現在の賃料は――
「六万……四万……二万……一万……三千九百八十円……零……なんですってッ!?」
タワーマンションを見上げて、
四十四歳、名の知れた不動産鑑定士である。
その不動産鑑定能力は凄まじく、その瞳に映した不動産の全てを見抜くと呼ばれている。
あらゆる不動産鑑定を行ってきた。
当然、事故物件と呼ばれるような物件にだって赴いたことはある。
だが、これほどの物件は族にとっても初めてのものであった。
「賃料だけじゃありません、地価もものすごいスピードで下がっていきま――うわあああああああああああ!!!!!!!」
族の助手――というよりも事実上の弟子である
リアルタイムで地価の計算を行っていた彼のタブレットが――あまりの地価の変動に耐えきれずに爆発を起こしたのだ。
爆発したタブレットが夜闇の中で、赤く弾ける。
咄嗟にタブレットを手放していなければ、彼の手は火傷していただろう。
「良い判断です、秤さん!」
咄嗟のリスク回避に族が称賛の言葉を送る。
「……最強の事故物件は伊達じゃないようですね、族先生」
「入居者全員が死んだ曰く付き……いえ、曰く付き過ぎの事故物件……どうやら伊達ではないようですね」
東京都内にまるで墓のようにそのタワーマンションはそびえ立っていた。
いや、事実としてそのタワーマンションは墓石になってしまったのかもしれない。
ただし、住民が永遠の眠りについたのはその下の地面ではなく高価で高級な高層墓石の中だ。
今考えれば、そのタワーマンションの『入居者の終の棲家になるタワー』という名は、このようになる未来を暗示していたのかもしれない。
一年前、そのタワーマンションの住民が一日で全員殺害される恐るべき連続殺人事件が起こったのである。
事故物件紹介サイトにおいても「全部屋で殺人事件」と記載されるほどに極端な事件であった。
犯人は未だに捕まっていない。
いや、そもそも一日でタワーマンションの住人を皆殺しに出来る人間がいるのかどうか、そもそもの事件の存在すら危ぶまれるほどであった。
現在の賃料は六万円――山手線内のタワーマンションの価格と考えると、破格どころか捨て値と言っても過言ではない。それでも入居者は誰ひとりとしていない。
そのタワーマンションの景気の良い死にっぷりに呼応するかのように、周辺の地価は下がりに下がりまくり、現在は一平方メートルあたり、逋セ莠悟香円という田舎の山の値段であるかのような安値を実現している。
「秤さん……今、なんて言いました?」
「結局、僕の鑑定力では……ここらへんの地価が逋セ莠悟香円と測定するまでが限界……って言いました」
耳を疑ったのは地価の安さではない。
己の弟子が人間にはとても発音できないような言葉を口走ったからである。
「……秤さん、ジャケットを事務所に持ち帰っていただけますか?」
族が自身のジャケットを秤に預け、言った。
如何なる時でも正装で挑むこの不動産鑑定士が、ジャケットを脱ぎ捨てるのは――生きて帰れる保証のない不動産鑑定に挑む時だけである。
「先生……?」
族は純白のシャツの袖をめくり、よく鍛え上げられた腕を顕にした。
「死んだ妻のプレゼントですのでね、あまり汚したくないんですよ」
――先生、俺も行きます。
死地に挑まんとする師に対し、秤はその言葉を飲み込んだ。
ジャケットを己に預けたということは、実質的な戦力外通告である。
自分が行ったところで何かが出来るわけではない、それどころか足を引っ張るだけだろう。
「先生、帰りましょう……」
代わりにそう言った。
「これが仕事ですからね」
弟子の言葉に対し、族は穏やかな笑みでそう返した。
もう秤にはそれ以上、何も言うことは出来なかった。
終の棲家タワー、エントランス。
大理石の床は歩く度に小気味の良い音を響かせる。
エレベーターは四基、当然であるが目のつく所に階段は無い。
まるでホテルのロビーであるかのように、柔らかなソファが置かれている。
「六万……」
ボソリと呟く。
先程までのような賃料の急激な低下が、このエントランスからは感じられない。
そもそも居住空間ではないが、このエリアは安全である――ということなのだろうか。
誰も住んでいないタワーマンションのエレベーター代を、オーナーは未だに払い続けているのだという。
誰かが再び住む日を待っているのか、あるいはただの意地や見栄か。
その答えを族は知らないし、知る気もない。
ただ、自身の仕事を行うだけである。
族はエレベーターの前に立った。
エレベーターの横にはボタン、そしてカメラがある。
部外者が操作出来ないよう、虹彩認証システムが実装されているのである。
族がカメラに自身の顔を向けようとした、その時。
ごう。
エレベーターの動く音がした。
エレベーターを利用する人間は、誰もいない――はずだ。
だが、予感はしていた。
何かがいる――賃料を、そして地価を下げる何かが。
「五万……四万……」
何かが降りてくる度に、賃料の低下を感じる。
おそらくは相当の物理的瑕疵が来る。
エレベーターに背は向けない、族はエレベーターを睨んだまま。
一歩、一歩と慎重に後退していく。
時間的な猶予はあるはずだ。
脱出するか、あるいはソファや柱の陰に隠れるか。
いずれにせよギリギリまでは粘りたいと族は思っている。
ひゃっ。
風を切る音がした。
「エレベーターが急速に下降しているッ!?」
物理的にありえない、だが事実だろう。
エレベーターが猛スピードで急下降しているのだ。
「うおおおおおおおおお!!!!!」
この時点で族は脱出を決意した。
少なくとも物理的瑕疵要因の存在は確信した。
オーナーが如何に対処するかはわからないが、少なくともこれ以上は不動産鑑定士に出来ることはない。
いや、違う。
族は自身の体中に広がるものを感じていた。
恐怖だ。
死ぬことを恐れていない――といえば嘘になる。
だが、常に死は覚悟している。
だが、族は死ぬことよりも恐ろしいことは覚悟していない。
そして、エレベーターから降りてくるものに捕まればそのような事態になるという確信があった。
エントランスを駆け抜け、自動ドアへ。
族の存在を感知し、自動ドアが開き――
「危ないッ!」
族は開け放たれたドアから脱出しようとして、一歩下がった。
ぎゃん。
ゆるりと開いた自動ドアは横ギロチンとでも言うべき凄まじき速度で閉じた。
もしものこのこと脱出しようとしていれば、身体が前半分と後ろ半分に分かれて死んでいただろう。
自動ドアが横ギロチンになっている――不動産鑑定評価としては想定だにしていない事態であった。
ごうん。
それと同時に、凄まじい音を立ててエレベーターが到着――否、一階に墜落した。
ぎゃうと音を立てて、エレベーターの扉がこじ開けられる。
見てはいけない。
背中が凍りつくように寒い。
不動産鑑定評価に関わるが、族は自動ドアの素手での破壊を決意した。
少なくとも瓦を破壊できる程度の心得はある。
瞬間、何かが族の耳をもぎ取った。
「うおおおおおおおおお!!!!!」
自身のものとは思えぬ獣のような叫び声を族は放っていた。
族の左耳が自動ドアに縫い付けられている。
スマートフォンだ。
族には知る由もないことであったが、亜音速で放たれたスマートフォンが族の耳をもぎ取りながら飛び、その耳を自動ドアに縫い付けて突き刺さったのである。
族の全身から汗が吹き出し始めた。
失った耳が燃えるように痛い、その熱に全身を炙られているかのようである。
「私、メリーさんフェニックス……今……」
スマートフォンから聞こえる音声に意識を割く余裕はなかった。
自身の背後に、恐るべき何かがいる。
「……不法占拠者ですか?」
命乞いの言葉でも苦悶の声でもなく、相手の素性を探ろうとする言葉が族の口から零れていた。
この状況になっても、いや、この状況になったから最期まで不動産鑑定評価に繋がる情報を求めようとしてしまうのか。
「不法じゃないよ、むしろ私達こそが正当なるここの住人と言ったところかな」
まるで友人と昼下がりに会話をしているような穏やかな声だった。
その声に敵意も殺意もない。
「……零」
それでも、族はこう言わざるを得なかった。
いるだけで賃料を極限まで下げる最悪の物理的瑕疵存在。
「君は……そうか、申し訳ない。人違いだったようだね。耳、ごめんね。持って帰っていいから、付けてもらうと良い。早く医者に持っていくと繋がるらしいからね。ごめんね」
スマートフォンに縫い留められた耳はぐしゃぐしゃに潰れていた。
元通りにはなるまい。
「アナタは……誰ですか?」
震える声で族は問うていた。
素直に逃げればいい、頭ではそうわかっている。
であるというのに、問いを発してしまったのはこの期に及んでも不動産鑑定士としての使命感から逃れられなかったのか、それともこの恐るべき空間の瘴気に呑まれてしまって、族自身もまた壊れようとしていたのか。
「事故物件一級建築士」
国家資格にはない悍ましい名前を背後の存在は告げた。
「この非道建築タワーマンションの建築士だよ」
【つづく】
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