2.メリーさん(後)


 ◆


『破ッ!』

 スマートフォンから俵さんの叫ぶ声が聞こえた。

 その声を聞いた管理人さんがスマートフォンを置いたまま、フラフラと引き返していく。まるで夢を見ながら歩いているかのようだ。 


「誰!?」

 けれど、私に管理人さんのことを気にする余裕はなかった。

 思わず叫んでしまったのも当然だろう。

 ただでさえ知り合いの少ない私だが、俵さんなんて人は見たことも聞いたこともない。


『簡単に言うとアンタを今狙っているようなバケモン共をしばいて回っている男だ』

「えーっと、じゃあ……その……」

 助けに来てくれるのだろうか、この人が。

 私を狙っている意味の分からないメリーさんの二人組……いや、ストロング・ザ・メリーさんの方は、俵さんが倒したらしいから、残っているのはビッグ・ザ・メリーさんだけ……ということになる。

 その残ったビッグ・ザ・メリーさんを倒しに……


 瞬間、私の思考を裂くようにスマートフォンが震え始める。

 おそらくはビッグ・ザ・メリーさんからだ。


「出た方が……いいんでしょうか!?」

『出るな……メリーの電話は奴にとっての手続きだ、出れば出るほど死に近づく』

 私のスマートフォンが私のものではないかのように悶えるように震えながら、悲鳴のように着信音を歌う。

 その恐ろしい歌声の中で、私は俵さんの話を聞いている。


『ただし、さっきのでわかっただろうが……奴はいかなる手段でもアンタに電話を取らせようとする』

「じゃ、じゃあ私……」

『勇気は出せるか?』


「へっ……?」

 勇気――自己啓発書じゃよく聞く言葉だ。朝礼の時に上司が訴えることもある。

 漫画でもアニメでもドラマでも、大事な時は結局それが一番必要になる。

 けれど、私に向かって勇気を出せなんて言う人間はいない。

 勇気が必要になる場面に、私が赴くことはない。

 私自身ですら私に期待しないから、勇気なんて言葉から離れていく。


「勇気……ですか……?」

 同僚の人と世間話を交わすなんてことですら勇気が必要になる私に。

 その程度の勇気すら用意できないで逃げてしまう私に。

 そんな私に、俵さんは勇気を求めようとしている。


『俺が辿り着くよりも、おそらくビッグ・ザ・メリーさんの手続きが終わってアンタを襲う方が早い。ストロング・ザ・メリーさんがぶっ倒されたのをビッグ・ザ・メリーさんが知るのも時間の問題だろうしな。となると、アンタにはビッグ・ザ・メリーさんから逃げ回って時間を稼ぎながら俺と合流してもらうしかない、ただ絶対にこれだけは約束するよ――』

 

 家の中は怖い。

 けれど、外はもっと怖い。

 ビッグ・ザ・メリーさんは家の中に入らないのか、それとも入れないのか、いずれにせよ玄関のドアに正拳突きを打ち込むだけだった。

 玄関のドアの歪みを私はまじまじと見つめた。

 綺麗な正拳の形に、ドアが凹んでいる。

 まるでドアが金属じゃなくて、ガムで出来ているかのようだ。

 それほどたやすくメリーさんはドアを凹ませてみせた。

 そんな恐ろしい存在が、家の外にいる。


 玄関のドアがやけに重く感じる。

 深呼吸を三回。

 どれだけ深く息を吸っても心臓の鼓動は早い。

 こうしているだけで何倍もの早さで寿命が消えていくような気さえする。

 手が冷たい汗でぬるぬるとしている。

 ビッグ・ザ・メリーさんから逃げようと、身体の中にある全部の命が流れ出ていこうとしているのかもしれない。


 私は俵さんの言葉を思い出し、覚悟を決めた。

 玄関の扉を開いて、管理人さんのスマートフォンを拾い上げる。

『もしもし……』

「俵さん……その、どこに逃げれば良いんでしょうか」

『どこでもいい……絶対に追いつくから、走り続けろ!』

「はいっ!」

 階段を急いで駆け下りて、エントランスへ。

 自家用車はない。この時間じゃレンタカーはやっていない。

 そもそも私は免許を持っていない。

 自転車もない。タクシーは呼んでも大丈夫なんだろうか。いや、多分無理だ。おそらく管理人さんみたいなことになってしまうだろう。

 色々なことばかりが頭の中を駆け巡ってしまっている。


『メリーさんみたいな怪異はなるべく伝統的な手続きを重視する……それが自分の力を十全以上に発揮するからだ。だから、アンタが逃げれば……電話の回数を増やして目的地の更新もできるだけ告げなければならない』

「はいっ」

 スマートフォンを片手に私は走る。

 目的地はない。

 街灯の明かりだけがぼんやりと照らす暗い闇の中、私はただただ走っている。


 走っている私の足が止まった。

 公営体育館前、暗い闇の中に緑色の光がある。

 今となっては絶滅危惧種となってしまった……電話ボックスだ。

 いや、ボックスではない。

 公衆電話を覆うガラスの壁は全て砕け散っており、ただ枠だけが残っていた。

 その上、公衆電話の受話器は外れている。


『私、ビッグ・ザ・メリーさん……』

 公衆電話の受話器越しにビッグ・ザ・メリーさんの声が響く。


「俵さん!!電話ボックスが破壊されてて!!」

『受話器を下ろすんだ!』

「はいっ!」

 殆ど悲鳴みたいな声で私は俵さんに言葉を返した。


『今、貴様を苦しめて殺すためにホームセンターへ行ったところよ……』

 受話器を壊さんばかりの勢いで下ろす。

 ツーツーという不通の音が、静かな夜の闇に反射して私の頭をグラグラと揺らす。


「ビッグ・ザ・メリーさんはホームセンターに寄ったみたいです!」

『ホームセンター!?クソッ!悪用し放題だな!!』

「最寄りのホームセンターはここから二百メートルのところです!!」

『とにかく逃げ続けるんだ!絶対にアンタに追いついてみせる!』

「は……い……」

 その時、私は気づいてしまった。

 アスファルトの地面が靴跡の形に凹んでいる。

 まるで靴を履いたビッグフットが柔らかなアスファルトを踏みつけて、その靴跡を修繕することなく固めてしまったかのようだ。

 だが、アスファルトの舗装段階でこの靴跡がついたワケではないだろう。

 靴跡の周辺にヒビが入っている。

 どれほどの力で地面を踏み込めば、この靴跡がつくのだろう。


『どうした!?』

「ビッグ・ザ・メリーさんの靴跡が……」

 なけなしの勇気が消え去ってしまいそうなぐらいに怖い。

 小さな女の子のように、涙が込み上げてくる。

 私を狙っているのは都市伝説で語られるただのメリーさんではない、鉄製のドアに正拳突きで軽く曲げてしまい、電話ボックスのガラス壁を粉砕し、そしてアスファルト舗装に平然とヒビを入れるほどのとんでもない脚力を持ったフィジカルモンスター……ビッグ・ザ・メリーさんなのだ。

 そんな怪物を相手に、私は逃げることしか出来ない。

 勝手に諦めてしまいそうになる身体を無理矢理に動かして、私は再び走り始める。


 私には逃げることしか出来ない。

 だったら、怖いけど――出来ることをするしかない。

 声だけしか知らない俵さんのことを信じて。


 目的地も考えずに私は再び走り始める。

 頼りはただ、俵さんの『どこでもいい……絶対に追いつくから、走り続けろ!』の言葉だけ。

 五分ほど走っていると、タクシーが後ろから走ってきて、私に並走するように横についた。

 開き始めるサイドウィンドウ。

 私は、否が応でも管理人さんのことを思い出す。

 中年の運転手さんの手にスマートフォンは握られていないが、安心は出来ない。


「……あの、なんか頼まれましてね」

 運転手さんが優しそうな声で言った。

 カーステレオから流れる深夜ラジオの声がやたらにうるさい。

 その瞬間、私と俵さんは気づいてしまった。


『破ッ!』

 俵さんの裂帛の気合が、運転手さんの意識を吹き飛ばす……と同時に、私はサイドドアを開いて、タクシーの助手席に乗り込んだ。


『えーっ、どうしても彼女に伝えたーいとのことでペンネーム、ビッグ・ザ・メリーさんからのお便りです。私、ビッグ・ザ・メリーさ――』

 ビッグ・ザ・メリーさんの現在位置を伝えかけたカーステレオを叩き切る。

 恐ろしすぎる、ビッグ・ザ・メリーさん。

 まさか電話だけでなく、深夜ラジオまで経由してくるとは。

 音声媒体というのならば、何でもありなのだろうか。


『あと少しで着く!それまで耐えてくれ!!』

 もうそんな時間なのだろうか、空はまだ暗いままだ。

 それでも、俵さんの声に私の心に希望が射し込む。

 ただ、走り続ける――絶対にビッグ・ザ・メリーさんから逃げ切ってみせる、と。


 シャッ。

 風を切る音がして、何かが私の前を横切った。

 その方向を見る、アスファルトの地面に何かが突き刺さっていた。

 よく見れば、それは――スマートフォンだった。


『私、ビッグ・ザ・メリーさん……貴様が逃げ惑うせいで、余計な時間を食ったが……近くの六階建てマンションの屋上にいるの、ようやく発見できた狙撃ポイントだ』

「うわあああああああああああ!!!!!!!」

 手裏剣めいて投擲されたスマートフォンを見て、私は理解した。

 何故、私は家を出なければならなかったのか……ビッグ・ザ・メリーさんは人間を操っても切りがないと見れば、直接スマートフォンを家の中に投げ込めるからだ。

 そして、私は逃げ切れるのか……私を中心とした、あたり一面にスマートフォンが突き刺さっていた。


『私、ビッグ・ザ・メリーさん……今、マンションの階段を降りているところよ』

 私の近くのスマートフォンがそれを告げる。

 前に逃げようと後ろに逃げようと、ビッグ・ザ・メリーさんの声から逃れることは出来ない。


『私、ビッグ・ザ・メリーさん……どれほど逃げても無駄よ……このスマ―トフォンの結界は貴様を捕らえる檻でもあり、貴様のための墓石でもあるの……あと、今道路を歩いているわ』

 足がガタガタと震えている。

 俵さんは間に合わないだろう、それでも……私は逃げようと走っている。


「私、ビッグ・ザ・メリーさん……貴様の後方五十メートルでクラウチングスタートの準備はバッチリよ……勢いよく助走をつけてやるわ、クク……」

 あと十秒もしない内に、メリーさんは私の後ろに到達する。

 そして、都市伝説と同じように……いや、ホームセンターで準備をしていたとか言っていたから、もっとひどい目に遭うんだろうか。どうやったって助からない。

 俵さんはあと少しって言っていたけど……東京静岡間の距離を考えれば……

 それでも、まだ私は走っている。

 俵さんと約束をしてしまったから。


『私、ビッグ・ザ・メリーさん……貴様の後ろにいるの』

 私の後ろに、なにか冷たいものが立った。

 それに生命の熱は無く、ただ悪意だけがあった。

 恐ろしいものだ。

 ただ命を脅かすだけの怪異。


 それと同時に、私の前に誰かが立った。

 スマートフォンの声と一緒に声がする。

 暖かくて力強い声だ。


『そうかい、俺は俵……アンタの正面にいるぜ』

 巨大な男だった。

 百九十センチメートルほど、全身に鎧のように筋肉を纏っていて、腕も脚も胴体も、私の同じ部位を何本も束ねたんじゃないかってぐらいに太い。


 その巨大な拳が私の頭上を通り過ぎて、私の後ろにいる何かを吹き飛ばした。

「グオオオオオオオオオオオオ!!!!!この……メリーさん界隈最強の女……ビッグ・ザ・メリーさんが……」

 振り返ると、ビッグ・ザ・メリーさん……その名に恥じぬ巨大な女が自動販売機に叩きつけられ……いや、めり込んでいた。

 自動販売機は好き放題地面にジュースをばら撒き、ビッグ・ザ・メリーさんは自動販売機から抜け出そうと必死になっている。


「とりあえず……募る話はあるが……まずは約束したことあるからな」

 ゆっくりと俵さんがビッグ・ザ・メリーさんの元へ歩いていく。

 約束――うん、あれは本当に良い約束だった。

 私が勇気を振り絞るには、十分なぐらいの。


「ま、待て……貴様ッ!たす……助けてくれッ!せめて、冥土の土産にその女だけは殺させてくれッ!頼む……その女の絶望の悲鳴を聞かせてくれたら私は安らかな気持ちで眠るようにお前に殺されてやっても――」


――ただ絶対にこれだけは約束するよ、アンタが最後の最後まで諦めないでいてくれるなら……アンタを散々ビビらせてくれたビッグ・ザ・メリーさんをスカッとするぐらい、ぶん殴ってやるよ!


「破ァァァァァッ!!!」

「ぎゃあああああああああああああああ!!!!!!」

 俵さんの太い拳がビッグ・ザ・メリーさんの腹部にめり込んだ。

 それと同時に、ビッグ・ザ・メリーさんが盛大な悲鳴を上げ――大爆発を起こした。

 音はない。

 ただ、激しい光と衝撃だけがあった。


「……どうよ」

「……スカッとしました」

 私はその場にへたり込み、そう言った。


「そいつは良かった」

 俵さんはそう言って、私に笑いかけた。


「ただ、こうしてジッとしているワケにもいかねぇんだ……非道建築タワーマンションのバケモンがアンタを狙っているからな」


【つづく】

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