憑かれた神官③
私とサニケが病棟をあとにするとき、外は黒雲から降り注ぐ雨に濡らされていた。サニケは慣れた様子で詠唱し、
「ガナ。少しいいかしら」
門扉に背を預けるようにしていたケイに呼び止められる。目でサニケに聞くと、彼は微笑みを残して先に棟を出た。
「ケイ。私も話があった。単刀直入に聞きたい。サニケは治るのか」
「……そのことなんだけどね。ガナ、わたしが昔した話を覚えてるかしら。その、恥ずかしい話なのだけど、すべてを癒す魔法の話……」
ついさっき思い出していたことだ。彼女が以前得意げに主張していた哲学。「万人を癒す回復魔法とは、絶対に救うという意志」「治るまで根気強く無限に回復魔法を使い続けるなら、それは万能の回復魔法を使っているのと同じだ」自信と希望に満ち溢れた頼もしいこの言葉を、私は好ましく思っていた。
「若い頃……いえ、未熟だったころのことよ。最近は、その主張に但し書きが必要だと感じているわ」
「それは……なんと書き加えるつもりだ?」
病棟の落とす影の中、まぶたを下ろし静けさを湛えた表情で、ケイは小さく答えを呟く。
「……しかし、患者の時間が永遠でないことを忘れてはならない」
◇
ケイを訪問したあの日から、三カ月が経った。
当初サニケは勤勉に彼女の元へ通い治療を受けたが、幻覚の頻度や影響が減ることはなく。やがて診療の日時を間違えたり忘れたりすることが増え、ここ二週間ほどは来ていないと聞いた。
〈
ケイの手紙にはそう書いてあった。彼女はそれでも諦めず、向精神ポーションの調合や脳神経そのものの治癒、カウンセリングと催眠魔法による認識調律など種々の治療を試してくれたそうだが、結果は芳しくなかった。
私は、ずっとサニケに会おうとしていた。警邏当番では彼が所属している南小教区まわりを率先して引き受け、個人の時間でも人通りの多い大市場や安らぎを必要とする者がよく集う噴水広場、以前彼と出くわした馬車小屋の周辺などを見て回った。
なかなか出会えなかった。そればかりか、街行く人の中から不穏な噂話を聞く事さえあった。
「サニケさんか……。近頃はちょっと、問題の多いお人だよな」
「神官さんを悪く言うなんてあたしにはできないわ。だけど……以前の誠実な彼はどこに行ってしまったのかしら」
「あんたも聞いたか?サニケの旦那が女を口説きまくってるって話!親切にしてくれた女のことをみんな、セレーナって恋人の名前で呼んじまうらしいぜ」
不愉快な噂だった。問題のある風説を流布する者は詐欺罪や大衆欺瞞罪の現行犯で憲兵駐屯所まで連行した。サニケが女の元へ通いに王都中央に向かうという話も、救命院のケイに診察してもらうためだと弁解してやりたかった。だがそれは彼が病であると触れ回ることを意味する。私にはできなかった。
無力感の日々。私はやがて積極的な警邏をやめた。
そして代わりに、神書を読むことにした。
何か私にできることはないか。彼の幸福の助けになれないか。その一心からだった。
……サニケも、そんな想いで神官の道に入ったのだろうか。
◇
昼間、警邏で近くに寄ったのでなんとはなしに酒場を覗いた。サニケが私に悩みを打ち明けた、あの酒場だ。
すると、彼と目が合った。
サニケ。三カ月もの間会えなかった、私の大切な友人。彼はこんなところにいた。
酒場の扉を押し開け、駆けるような勢いで歩み寄る。その距離はどんどん近づいていく。
けれど近づけば近づくほど、彼は別人のように見えた。
目は落ちくぼみ頬はこけ、肌はつやを失い、髪は白い毛の混じるものになっていた。神官服も綺麗に整った着こなしだったのが、今やあちこちがほつれたり破れたりして汚れている。みすぼらしい有様だった。
「どうも、が、がー……」
「サニケ……、君なのか……?」
「あ、あぁー……、あなたは、サニケという名前……でしたか?ガ……から、はじまるものだったよう、な……」
カウンターのそばに立ち尽くす。彼の意識は朦朧としているようだった。ひったくるように彼の杯を取る。一つだけ机に置かれていたそれから、酒の匂いはしなかった。叩くように杯を置く。声を張り上げる。
「私だ。王国軍特務偵察部隊隊長、ガナファリオラ・ゼナ。ガナだ。君とは西方要塞の慰霊祭で出会った。王都の馬車小屋で偶然再会し、この酒場で君に酒を奢って、霊に憑かれてしまったという悩みを聞いた。それで君に王立救命院の回復術師ケイを紹介した。部隊長のガナだ。ガナ。……サニケ、私を覚えているか」
「ガ……ナ……さん…………」
勢い余って肩を揺さぶったのが効いたか、彼の目は徐々に生気を取り戻していった。焦点の合っていなかった瞳は私を見つけ、次に自分がいる酒場をぐるりと見まわした。
「……あなたを、探していたのでした。ぼく……は、ここに、そのために来たんです……」
二週間前、サニケは馬車で王都を発っていた。東の聖地へ、「総司祭の神聖祈祷術」を施してもらうためだ。
……神聖祈祷術、大神教という組織の頂点たる総司祭が扱う祈祷術のみがこう呼ばれる。その威力、威光、神秘と奇跡は代々世を遍く祝福し魔を退けると崇められ、実際最も長く魔王軍の侵攻を受けているのに聖地は一度として陥落していない。大岩の雨を魔王軍に降らせた、昼光で夜闇を塗りつぶし悪疫を追い払った、三つの聖河の水を大蛇のごとくして魔王軍を襲わせた。そんな規格違いの逸話を何度も聞いたことがある。
サニケの不調に気づいた周りの神官が高級神官に掛け合い、神官長が神殿長に掛け合って、神殿長が総司祭へと取り次いだそうだ。つくづく彼には人徳があったのだと実感する。そして総司祭は対悪疫・悪霊においては神話の英雄に匹敵する存在。これ以上ないお方だ。絶対に救ってくださるはず。
目の前のサニケを見ていなかったら、私もそう考えただろう。
総司祭は神聖儀礼祈祷術を彼に施したが、少女霊の傍観はなくならなかった。
総司祭はその訳をこう述べた。「彼我の世界に大いなる隔たりがあり、かの領域は我らが大いなる神が慈悲深き御指を差し伸ばし給わない場所なのだ」
そしてこう助言した。「救いがあるとすれば、それは汝の死のみが切り拓ける先にある」
「……ぼくは、死ぬしかないのでしょうね」
私たちはあの日と同じ席に座っている。酒は注文していない。
サニケは空の杯をあおっている。中の虚ろを、自らに移し替えるかのように。
「一昨日、いや、先週……あれ、はは、いつだったか、家に帰ったら、女性に頬を打たれました。彼女……ぼくのフィアンセらしいのですが、あなたの不貞にうんざりした、もう耐えられないと。そう言ってどこかに消えました。……ぼくのフィアンセ……、セレーナというのですが、彼女ではなかったと思います。セレーナはぼくを打ったりしなかった……」
項垂れて机に伏せる。酔いつぶれたと思った給仕が彼の杯に水を注ぐ。そういえば、最初にこの酒場で話したときにも、彼は……。
「ガナさん、ぼくは誰ですか?」
唐突にそう言われる。
サニケ。彼の目には私が映っていた。しかし彼は、なにか見た事のないものを見るように目を見開いていた。
「どこに帰ればいいんですか?どこへ働きに出るのですか?何時に起きて、誰と食事して、何を楽しみにすればいいのですか?どうやって生きればいいのですか?なぜ、どうして……
どうして、生きているのですか?」
彼の杯はまた空だった。だが、水を飲むところは見ていない。水は消えてしまったのか。虚空で塗りつぶされたのか。
それか、彼を狂わせる少女の霊とやらが飲みつくしてしまったのか。
……私は、できることなら、その霊を最も惨たらしい方法で殺してやりたいと思った。
だが……、しかし。
「それができるのはサニケ、君だけだ」
彼の両の頬を手のひらではさみ打つ。
痛みよ、今一度彼を正気に戻せ。
闘志よ、この手のひらを伝え。
サニケ。私の友人。悪夢から助けてくれた者。
君に幸せに、生きてほしいのだ。
「……サニケ。これから君を殺す」
空の杯に、戦意を注げ。
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