憑かれた神官②

その部屋にサニケを不安にさせるものはなかった。脳に魔力を流す魔導装置も、発狂した患者が自ら抉り取った目玉の保存液漬けも、靭性強化を施された拘束ベルト付きの手術台もない。

そこには数え切れないほどの医学書と魔導書が納まった白い棚、精緻な人体骨格図が貼られた白い壁、そして優し気な微笑みを浮かべる白衣の女性が淹れた紅い茶があった。

「いい香りでしょう?胸いっぱいに吸い込むと、心が落ち着きますよ」

女性は白いカップを口元に運び、しばし湯気に鼻を埋める。香りを堪能すると口をつけ、上品な仕草で音もなくそれを飲む。それを見たサニケはカップを持ち、逡巡ののちに口に含んだ。舌の上で転がし、鼻から抜ける香りの深さを味わって、ほぅっと溜息をつく。

私はその強い匂いが苦手なのだが、彼は気に入ったようだ。

「紅茶、と呼ばれる飲み物です。長らく西北の王家が独占していたのですが、魔王軍の侵攻を受け亡命した先で作られはじめ、徐々に世に広まってきているんです。美味しいでしょう?」

「ええ。なんと高貴な味わいだ……。こんな素晴らしいものをずっと自分たちだけで楽しんでいたなんて、罪作りな方々もいたものですね」

「サニケ、君が飲んでいる紅茶の茶葉は王の茶園で働いていた奴隷が始めた茶畑の、そのまた奴隷が始めた茶畑のもの、つまり低ランク品だ。王家が飲んでいたようなのはさらに芳醇だと聞くぞ」

「まあ、ガナったら。これだって一つまみで徴発兵の給料三か月分はする高級品なんですよ?自分にはわからない良さだからって、ランクで批判するなんて狭量だわ」

若い女医はくすくすと笑い、それを見たサニケもまた小さく笑う。

物々しい門をくぐり、浄化魔法の重ねがけられた清潔極まる通路を行き、窓のない扉を開けて入って来た狭苦しい部屋だということを忘れさせる光景だった。



「それじゃあ、そろそろ本題に入りましょうか。改めて自己紹介から」

そういうと彼女は居ずまいを正し、慎ましい胸を張って自信に満ちた声で言う。

「わたしはケイ・フォーカー。王立救命医院精神医療魔法科病棟特別治療班長、簡単に言うと心の病を癒す魔法の専門家集団を束ねさせていただいています」

簡潔な説明だ。だが彼女の革新的な実績を挙げ始めるとこの場の主役が彼女になってしまう。ケイという友人が私にとって、そして戦役帰りの兵たちにとっていかに偉大な存在か補足したい気持ちを、サニケの表情を見て落ち着けた。

「初めまして、フォーカーさん。僕は大神教神殿南小教区所属筆頭神官を務めております、サニケ・ソーンです。サニケと呼ばれることが多いので、そう呼んでいただけると嬉しいです」

「まあ、ありがとうサニケさん。わたしのこともケイと呼んでくださいな。実は、わたしの叔父はあなたに助けられたことがあるの。あなたが村に施した祝福のおかげで飛来した病魔を退けることができたって。あなたとは、ぜひとも友達になりたいわ」

いつだったか聞いたことがある。心を病んだ患者にとってまず最初の壁は、自尊心。それは患者が持つ病人意識、「自分は国や社会、家族や友人のために働く事のできなくなった病人だ」という認識を胸中で押し殺し、医者に対して無意味な見栄を張らせ虚偽の答えを言わせたり我慢をさせたりする。

彼女はこの壁を越えるためまず患者を友人にし、ごく自然に、「悩みを聞く」という体で診察をするのだそうだ。

彼女の治療はすでに始まっていた。

一つ、二つと話題が移り変わっていく度、ケイはサニケの病状の仔細を詳らかにしていき、同時に二人の距離感を間近なものへと縮めていった。最初は机を挟んだ対面で座っていたのに、二杯目の紅茶を注いだ彼女が座ったのはサニケの隣の席だった。彼はそれに気づいていない。

「と、つい話が弾んでしまったわ。これじゃあなたのフィアンセを妬かせてしまうわね」

「はは、そうですね。頬を膨らませて腕を組んでいる姿が目に浮かびます。ケイさんは心を癒す魔法の専門家なんですよね。治療を受けたいのはもちろんですが、系統の違う魔法それ自体にも興味があります。どんなことをするんですか?」

こうしてケイは、サニケの方から「治療してほしい」と言わせることに成功した。幼さを感じるいじらしい笑みを浮かべた彼女は、手のひらに魔力を集中させ淡く安らかなエメラルドグリーンの光を作り出した。



精神疾患、精神障害、心理的大けが、心の病、それらの言葉で言い表されるものの治療方法というのは、確立されていない。その最たる理由は、病原となる事象の多様性。つまるところ、原因が人それぞれであるために、誰にでも適用できる回復魔法が作れないということだ。

だが彼女、こと精神疾患においては王国一の回復術師であるケイに言わせると、それは甘えであるという。

以前、彼女はこう言った。

「万人を癒す至高の回復魔法、それはのこと。一人一人を治すための魔法を無限に使いつづけるのなら、それは誰をも治しうる魔法を発動させているのと同じことでしょう?」

次の年、彼女が国王陛下から褒賞を賜ったときの功績が、「神経系全般を統合的に癒し、軽度の精神的な失調や、幻惑、魅了、催眠状態から回復させる魔法、精神復律メンタルヒールの発明」だったのは皮肉なことではあるが。


「サニケさんほどの神官が少女のゴーストを祓えなかった理由。それはごく単純に、ゴーストではなかったからではないかと考えています」

エメラルドグリーンの仄かな光をサニケの首筋に照射しながら、ケイは自らの所見を述べる。

「モンスターの仕業によるものなのは間違いないでしょう。ですがそれは憑りついて生気を奪い取るゴーストではなく、魔族領から飛来し人々に悪疫をもたらすものが原因ではないかと」

「病魔ですか?ですが彼らがもたらすのは伝染性の皮膚病や呼吸器疾患だけ……、あ、いや……」

「お気づきですよね。稀ではありますが、集団での幻覚や催眠の報告もあります」

私は二人ほど病魔の生態に詳しくない。それを知ってのことなのか、ケイはどこか説明的な口調で続ける。

「サニケさんはどこかでその類の病魔に精神病の種を植え付けられた。当の病魔自体は大したものではなかったためにその負傷を見逃してしまい、退治したあとになって病が発症した。その時間差と、その幻視の特殊性もあって、ゴーストに憑りつかれたのだと解釈した。事の経緯はそういうことだったのではないかと思うんです」

「それは……、た、確かに、考えてもみなかった可能性です……」

サニケは目を見開き口元を手で覆っている。だが震えているその声とは裏腹に、顔つきは徐々に生気を取り戻していた。ケイはメンタルヒールだけでなく、栄養生成や代謝促進などの作用を持つ複数の魔法を同時使用しているのかもしれない。

「なるほど……。……はは、なんだ、そういうことか。そうだったのか!ああ、たしかにそれなら、筋が通る……!ケイさん!」

「はい、サニケさん。あなたのお悩みはわたしの得意分野です。任せてください。絶対に治してみせますよ」

自分の祈祷術が少しも通用しなかったことに、きっとサニケは絶望していた。少女霊の強大さに、自分の無力さに、誰にも頼れないという孤独感に、打ちひしがれていただろう。真っ暗闇の中にいたのだ。

いまサニケはとてもはしゃいだ様子でいる。城壁の外を初めて見た子供が親を質問責めにするような調子で、ケイに回復魔法のことを聞いている。闇の天蓋を打ち破り、彼の世界に光が満ち始めたのだ。

よかった。彼の力になれて。

私自身が何をしたわけでもないのだが。サニケとケイが希望の溢れる会話を楽しんでいるのを見ると、不思議な満足感が私の中にも去来するのだった。


「なるほど、つまり回復魔法の解釈では祈祷術の光は物質の………………」


サニケは突然止まった。

私はサニケではなく、時が止まったのかと思った。止まるはずのないものが止まった、そう感じたのだ。

だが目の前の光景は静止していない。ケイの手からはメンタルヒールの快い光が降り注ぎ、彼女の頬に滴る汗も上から下へ流れていた。

止まったのはサニケだ。


彼の、呼吸だ。


「サニケさん!!サニケさん!!」

肩を叩いて大声で呼びかけるケイ。我に返って私も彼に駆け寄る。肩を掴んで揺すり意識を引き戻そうとした。すると、

「……え、ああ、ケイさん、ガナさん……」

サニケはぼうっとした声で応えた。幸い、彼はすぐに帰ってくることができた。

「あはは、驚かせてしまいましたね。そう、こういった様子になるんです、魂が外に出て俯瞰した状態になっているときは……。いえ、これは病による幻覚なんでしたっけ。とにかく、もう心配することではありません。

そうですよね、ケイさん。だってもう、治せるものだってわかったんですから」

その声は明るかった。彼の世界はまだ注がれた希望で満ちているようだった。

その彼が見ているのは、空になったティーカップの底だ。


ケイは、この国で一番の回復術師は、安堵を誘う細い笑みをサニケに向けて。


彼の肩からその手を下ろした。

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