憑かれた神官①
彼はまだ成人して間もない若人ながら、街の人々から信頼の厚い神官だった。酒は嗜む程度、賭博はせず、お堅い説教師とは違って口うるさく咎めもしない。神に仕え一生を捧げてはいるものの、人の心に寄り添うことを忘れない男だった。悪漢から助けた酒場の給仕と婚約していて、あとから分かったことだが子供を授かっていた。
男の名はサニケ。幸せになるべきだった人。
あんな最後が、彼にふさわしいはずはなかった。
◇
サニケと私が出会ったのは西方要塞外縁の戦没者墓地。死した王国兵の弔いと、死霊からの情報収集のために開かれた慰霊祭の日だった。
これまで何度も慰霊祭に立ち会い何人もの神官を見てきたが、彼のように技量と心遣いを併せ持つ精緻で丁寧な祈祷術を行う者はいなかった。
残念ながら魔王軍の情報は得られなかったが、部下の霊が安らかな顔で眠るのを見ることができた。その日の夜は悪夢にうなされなかったことを覚えている。
だから王都の馬車小屋でばったり彼と再会したとき、私は酒を一杯奢らせてほしいと頼んだ。礼のため、だけではなく私が、彼のことを好んでいたからなのだろう。牧羊犬のような笑顔で「ちょうど麦の感謝祭ですから」と快諾してくれて、酒を飲む前から胸が温かくなった。
「でもよろしかったのですか?僕は午後からお暇を頂いていますが、部隊長殿は……」
「ガナでいい。皆そう呼ぶ。……最近は平和になったからな。馬車小屋まで
そう、平和になった。しきりにあった王都への病魔襲来はこの一年起きておらず、海魔に海上封鎖されていた南方戦線には勇者が向かった。彼ならまた吉報を届けてくれるだろう。
しかし、対面するサニケの顔には影があった。目元にしわがあり、頬もすこしこけている。少し前までは神官職も救護任務や支援部隊に引き出されて忙しくしていたが、王命は二ヵ月前で期間を満了し、急ごしらえの合同指揮所も撤去された。今はまだ事後処理が残っているのだろうか。
「……君はどうだ、サニケ。まだ神殿は忙しいのか?疲れているように見える。馬車小屋への用というのも気になるな」
ぎょろり、と彼は目を見開いてから、自分の顎を触る。輪郭を確かめるように手のひらで頬をなぞり、思い出したようにぎこちなく笑みを浮かべた。
「はは、お恥ずかしい。これは自分の不徳と不摂生のせいです。ガナさんや王国軍のみなさん、それに勇者様のおかげで神殿も平穏を取り戻していますよ」
「そう、か。……不徳、と言ったな。部下を哀れな死霊から護国の英霊にしてくれた君には似合わない言葉だ。私事に踏み入る無礼を許してくれるなら、どうか詳しく聞かせてほしい」
「いや、本当に、回復術師の咳こぼしみたいな話で、語りがたいのですが……」
一呼吸の間サニケは杯に視線を落とし、それから酒を一気に飲み干した。堪えた息を勢いよく吐き出して、口元を手の甲で拭う。
姿勢を正すと、赤らんだ顔で話し始めた。
「実は、ゴーストに憑かれてしまったみたいで……」
◇
三カ月ほど前のことです。神殿に
背丈はこの酒場のカウンターより少し低いくらいで、服装はおそらく灰色のウールの服。でも詳しくはわかりません。僕もその霊をちゃんと視たことがないんです。
というのも、僕がその霊を意識できるのは、その霊が僕を見ているのを視ているときだけなのです。
朝起きて顔を洗っているとき、教会堂で朗誦をしているとき、……フィアンセと食事をしているとき。日常のふとしたときに、少女の霊が僕を見ている姿を、まるで魂が外に追い出されたかのようにして傍観させられる瞬間が訪れるんです。
あるときは神殿で書記生見習いたちに授業をしている自分を、窓の外から見ていました。少女は手前にある窓際にこちらに背を向けた状態で立っていて、つまり教鞭をふるう僕を眺めていた。
またあるときは市場へ買いものに来た自分が露天商のフルーツ自慢を聞いている姿を、行き交う人々を挟んだ向こうから見ていました。少女は露天商の後ろに積まれた木箱の陰から、半分だけ体を覗かせて僕を見ていた。
なにげない暮らしの唐突な瞬間に、自分が自分から切り離されて、奇妙な少女霊に見つめられている姿を視せられる。……直ちに実害があるわけではないですが、これが、なんとも堪えるものなんですよ……。
まるで、ちっぽけな毎日を繰り返すだけで生きた気になっている哀れな自分を嘲笑われているような、それに気づかない底抜けの愚かさを冷たく咎められているような……そんな気がするんです。
……………………。
…………。
……。
◇
「君のことだ、もうとっくにその少女を祓おうとはしたのだろう? どうだったんだ」
サニケは黙って首を振った。その首筋から額にかけて、彼の肌はいやに白い。酒を飲みほしたすぐ後だと人に言っても信じてもらえないだろう。
それは水だったんじゃないのか、と。
「……自分がわからなくなってくるんです、傍から見る自分に慣れてしまったら。実害がないからと対処を怠った僕の落ち度です。いざ重い腰を上げた時には、既に僕は神官としては無能者だった」
潰れるように項垂れて腕を組むサニケを見て、給仕が水の入った木の杯を持ってきた。机にそれが置かれるのを見ると、彼は給仕の女を見て挨拶をする。
「ありがとうセレーナ」
杯の中を見つめながら彼は話を続ける。
「悪霊を祓う最も初歩的な方法は、神に祈り光を賜ること。みなさんが
一般的には低級のゴーストを祓うのがせいぜいの魔法だ。しかしサニケはその御光で、農村部に疫病をもたらす悪性病魔を祓い浄めた。まだ十五歳のときだったという。
いつかの慰霊祭の前、紹介状で読んだことだが、彼はその功績とその他種々の輝かしい経歴、そして人徳があって、この若さで下級神官を指導する筆頭神官の一人になったのだ。
「ですが私の御光で、その無害な少女を祓うことはできなかった」
杯の中から、いつの間にか水は無くなっていた。
「……中級祈祷術の
杯の中にはいま、水に代わって闇が納まっていた。
「儀礼祈祷術をご存知ですか?神殿か祭儀場のような特別に誂えた場所でしか行えない術なので世間にはあまり知られていませんが、場所・対象・手順を厳格に定めることで無比なる神の奇跡を得ることができる祈祷術です。下級神官では果たせないのはもちろんのこと、筆頭神官でも多くが二割以下の成功率という難易度ですが、その奇跡を前に存在を続けられた悪霊はごく限られます。
……少女の霊を対象に三度、儀礼祈祷術を成功させました。
彼女は何事も無かったかのように、今も僕を見ています」
彼の目は昏かった。杯の中を映したように、ひたすらに黒く、吸い込まれて落ちていくのではないかと思うほどだった。
「……………そうか。……………大変だったな」
私は彼の杯に、自分の杯に入っていた酒を全て注いだ。
「力になろう。王国軍は精神的な傷病者の治療にも注力している」
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