10.絶対、何があっても離さないから②
どんよりした曇り空が蓋をして、今日の空気はとても湿っぽい。
こんな日に天気予報が降らないって言ってても信用するわけなくて、見もせずに傘を2本持っていこうとしたけど……。
「そっか……私の1本しかないんだ」
お兄ちゃんの傘って、そういえばないんだった。
ちゃんとした傘を買ってあげるには、おこづかい、使いすぎちゃったな……。
「もし帰りに降ってきたら、しょうがないから相合傘だね……ふふっ」
お兄ちゃんの病気は、普通は4歳くらいまでの子どもがかかるような、夏風邪の一種だった。
症状が重くて脱水症状が出る可能性があるって診断されて、点滴治療のために入院してたけど、もう治りきって、今日は退院日。
今から私は、お兄ちゃんを迎えに行って……ちゃんと、この気持ちを伝えるんだ。
感染症対策で面会は謝絶されてたから、この病院に来るのは、お兄ちゃんの入院以来。
もう退院の時間は過ぎてるはずだけど、姿が見当たらない。
エントランスはちょっと広いけど、見つけられてないなんてことはないよね……。
「すみません、高崎玲の家族なんですけど……本人はもう退院してますか?」
受付の人に尋ねて、調べてもらうと。
「はい、会計もお済みです」
「そうですか……ありがとうございます」
じゃあ、ほんとに見つけられてないだけ?
それとも、もしかして……。
「一人で帰ろうとして、出ていったの……?」
外に出ると、思ってた通り、雨が降ってきてる。
お兄ちゃん、傘持ってないよね? ちゃんと雨宿りできてるかな……?
「とにかく、探さなきゃ!」
胸騒ぎがしてきて……お兄ちゃんには、逆に帰るつもりがないような気がしてきて。
自分の勘を信じて、私は傘を開きながら走り出した。
「はあっ、はあっ……! お兄ちゃん、どこにいるのーっ!」
病院の周りの、人がいなくて雨宿りできるような場所を探していってる。
体力には自信があるけど、傘を持ちながらだと走りにくくて……雨も強まってきた。
「この公園にもいなかったら、とりあえず雨が止むの、待とうかな……」
雨を遮る遊具を探しても、やっぱりいない。
一度諦めようとして、入ったのと反対側の入り口に向かっていったら……。
「あっ……」
お兄ちゃんが……。
ベンチに座って、雨に打たれてる。
「お兄ちゃん……!」
大声で呼んで駆け寄ろうとして、思いとどまった。
絶対なにかあったんだ……穏やかに接してあげないと。
ゆっくり近寄ると、濡れた砂利を踏む音に気づいたお兄ちゃんが、こっちを向いた。
「お兄ちゃん、こんなとこにいたんだ。また風邪引いちゃうよ? ほら、一緒に帰ろ」
すぐに、視線を逸らして。
「……帰らない……」
私はそばに立って、一緒に入れるように、傘を持つ手を伸ばした。
「……そっか、帰りたくないんだ。じゃあ、このまま傘の中で一緒にいるね」
「……こんな大人と、一緒にいたら、いけない……」
お兄ちゃんの表情は、消えたまま。
「……結華が優しいから、忘れてた……救うほどの価値が、僕に、ないこと……外の人たちが、思い出させてくれた……」
……多分、病院で何か言われたりしたんだ。
人とは変わってる部分を、事情を考えようとしない誰かに、馬鹿にされたり、怒られたり。
「お兄ちゃん……自分のこと、許していいんだよ。私と一緒にいて、いいんだよ」
「……大人が、子どもに救われるのは……おかしい……」
「私は、そうは思わないよ」
お兄ちゃんの濡れた髪を、撫でる。
「大人だって誰かが救わないといけないときがあるし、子どもにだって誰かを救えることは、きっとあるもん」
「……それでも……大人は、子どもを保護するべきで……子どもに責任を、持たせたらいけない……」
お兄ちゃんは……目線を下にやった。
「……このルールは、社会の仕組みを……最低限以上に、保ってて……それは、結華のことも……完璧じゃなくても、守ってる……」
「そっか……それに助けられてるみんなのことを考えてるんだね。そのみんなは、お兄ちゃんのことをずっと無視してるのに」
「……結華に目を向けさせた、僕のほうが……間違ってる……」
膝の上の握りこぶしが、一瞬、震えて。
「……お兄ちゃん。誰に否定されたって、自分で否定したって……お兄ちゃんの苦しみも、悲しみも、なかったことになんてならないんだよ」
「……っ……」
息が一瞬、震えた。
「だって、お兄ちゃん、ずっと泣いてる」
分かってるよ。
涙は流れてないけど、今、泣いてるの。
「だからね。お兄ちゃんのこと、私がずっと許してるから……お兄ちゃんも自分のこと、許してあげて?」
頭を撫でられながら……お兄ちゃんは。
「……」
両手を開いて。
見つめて。
「……許せない……」
握り直して。
目をつぶって。
そこから。
「……ゆるせないよおっ……!」
涙が、ぶわあっ、と溢れて。
大きなしずくが、頬を伝った。
「……だ、だって、全部っ……全部、当たり前だったんだって、そう思ってないと……っ、踏んづけられる理由を、探さないと……自分を、否定、しつづけないと……もう、何もかも、憎くて……! そう、だ……ほんとは、みんな……みんなが、許せないんだ……!」
薄い眉を、ぎゅうっと下げてて。
「……こんな、こんな風に生んだ、くせに……ほうってた、父さんも……出てった、母さん、も……っ! 囲んで、殴ってきた、やつら……ずっと見てなかった、先生……っ、離れていって、笑ってた……あの子……たまたま、力があった、だけの……あいつもっ……!」
薄い唇が、ぎゅうっと引いてる。
「……僕を突き落とした、やつら……僕が下敷きの、この世界で……平気で生きてる、やつら……みんな、許せないい……っ!」
びしょびしょのお顔が、私のほうに向いて。
「……最初、ゆ、ゆっ……結華を、見たとき、だってっ……僕のこと、見下しながら……幸せに、なっていきそうで……じ、事故とか、病気で……人生、台無しになれば、いいのにって……!」
撫でる手に、びく、びく、って震えが伝わってくる。
「……こ、こんな、やつ……っ、こんなやつ、もう触らないで……っ!」
お兄ちゃんは立ち上がりながら、私の手を振り払って。
もう片方の手で持ってた傘を、叩き落して。
それから、震えた息を吐いて……膝から崩れ落ちた。
「……い、いっそ……消えられ、たら……うう……ううううううっ……!」
両手でお顔を覆って、その隙間から泣き声が漏れだして。
傘を拾うかわりに、私は……かぶさるように、お兄ちゃんを抱きしめた。
「お兄ちゃん……大丈夫だよ。私がずっと、許してるよ」
胸にうずまって泣くお兄ちゃんの、後ろ髪を撫でつづける。長さに悩みながら、切ってあげたとこ。
「そうだよね。お兄ちゃん、つらかったんだ。ごめんね……自分の中の、こんなにつらい気持ち、見つめさせちゃった」
今は私を打ってるこの雨なんか、お兄ちゃんにとってはきっともう、なんでもないものになってたんだ。
自分の感情なんてなんでもないものだって、なんとか思い込んで、ずっと押し殺しつづけてたんだ。
「お兄ちゃんのほんとの望み、どんなのだって受け止めるよ。だから、私に聞かせて?」
「……ううっ……っ……結華っ……」
腕をほどいて、だんだんおとなしくなってきた空に向かって、傘をさし直すと……。
お兄ちゃんは、まだすすり泣いてるけど、少し落ち着きを取り戻した様子になってて。
「……初めて……結華を、見たときは……一緒に、住むのが……怖かった……みんなに、愛されそうで……幸せが、約束されてそうで……視界の隅に、映ってるだけで、苦しかった……」
恥ずかしそうに、でも赤裸々に、私への気持ちを打ち明けはじめてくれた。
「……けど……ご飯を毎日、作ってくれて……持ってきてくれて……話しかけてくれて……そういうの、全然、慣れてなかったから……心を、許しそうになって……それで……構おうとしてきたのを、つい受け入れた……」
あの日、ほんとに嬉しかったな。私がまだ、お兄ちゃんのことを全然知らなかった頃。
「……そうしたら……しっかりしてる性格が、分かってきて……僕のために、ずっと優しくしてくれて……苦手だった、はずの……守られそうな、幼い見た目も、雰囲気も……芯の強さを、輝かせてるように、感じて……そのうち、内面も、外面も……結華の全部が、恋しくなってた……」
……そうなんだ。最初は嫌ってたところも、そんな風に見てくれたんだね。
「……こんなの、ダメに、決まってるのに……認めたく、なかったのに……僕は……結華のことが、好きなんだ……」
雨は、もうほとんど止んできて。
それでも、お兄ちゃんの頬には、しずくが一筋伝ってる。
「……だから……もう、僕から、離れて……僕と関わってたって、幸せになんて、なれない……」
お兄ちゃんは涙を浮かべたまま、あの誕生日みたいに、微笑んだ。
「……結華流に、言えば……僕は、かっこいいヒーローじゃ、ないから……」
少し眉を下げたお兄ちゃんの笑顔は、悲しくて、悲しそうで……。
でもやっぱり、とってもかわいい。
「うん……聞かせてくれて、ありがと。そっか、私のこと、好きだったんだ。えへへ、嬉しいな……」
閉じた傘を脇に置いて、地面にゆっくり膝をついて、お兄ちゃんと同じ体勢になる。
「私もお兄ちゃんのこと、大好き。一緒にいるだけで、これ以上なんてないくらい、幸せなんだよ……だって」
視線を上げて、目を合わせて。
お顔に、私の手を添えてあげた。
「お兄ちゃんは、私のかわいいヒロインなんだから」
もう片方の手は、自分の胸に。
「だから私は、そんなお兄ちゃんの、かっこいいヒーローになるの」
お兄ちゃんの目は丸くなって、声が出るまで、少し間があった。
「……僕、が……ヒロイン……?」
「えへへ……もう一度聞きたい? いいよ、何度でも言ってあげる。お兄ちゃんは男の子だけどヒロインで、私は女の子だけどヒーローなの」
「……なん、で……」
もっと困り眉になっちゃった……かわいい。
「それはね……お兄ちゃんが、世界で一番かわいいから。出会った日から、ずっとそう思ってるんだよ。お兄ちゃんが拒んで、関係が終わっちゃいそうで、これまでは言えなくて……そのかわり、私のほんとの気持ち、今から伝えるからね」
胸から手を離して、両手でお兄ちゃんの頬を包んであげる。
「最初に好きになったのは、やっぱりこのお顔。一目ぼれだったの。えへへっ……いきなり面食いで、ごめんね? お兄ちゃんはきっと今、自分の見た目を好きになれないんだろうけど……このお顔、ほんとに綺麗でかわいくて、私、大好き」
「……っ……」
お兄ちゃんは、また涙をこぼしだして。
私はそれを、親指で拭った。
「どの部分も整ってて、愛らしくて、完璧で、じっくり見るほど胸がキュンキュンするんだけど……特に好きなところは、おっきなおめめ。お兄ちゃんっていつもは、お顔に感情が出てないように見えるけど……ずっと観察してたら、このつぶらな瞳の中に潜んでるって、分かったの。暗い気持ちを頑張って隠してるときも分かっちゃって、とっても健気に思えて、よしよししたくなっちゃう。逆に喜んでくれてるときは、普段お人形さんみたいなお顔が、少し動いて……できるだけアピールしてくれてるんだって伝わって、私のほうまで嬉しくなるの」
片手を喉まで滑らせて、そこをゆっくり撫でて。
「お兄ちゃんの声、他の男の人と違って、響きが頭に届いてる気分になるんだよね……そういうの、頭声、って言うんだって。大人の男性はあんまり出さないらしいけど……お兄ちゃん、声変わりしてないもんね。幼い少年って感じの声で、かわいくて……耳が幸せ、って、こういう感覚のことなんだって、初めて聞いたとき分かっちゃった」
お顔に視線を戻すと、涙目のまま、頬が赤く染まってきてる。
「頭に響く声って、しゃべり方とか声色次第では、多分うるさく感じるんだよね。私の声とか、頭がキンキンするってたまーに言われちゃうし……だけどお兄ちゃんの声は、男の人にしては高いけど、落ち着いてて、聞いててうっとりしてきちゃう。それに、話し方もおとなしくて、ゆったりしてるよね。言葉を急がずに、いつもじっくり考えて選んでから、話してくれてるんだって、そう感じて……お兄ちゃんとお話してるとき、いつも心が温まって、安らいでるんだよ」
首から、手を撫でおろしていって……薄い胸の真ん中に、当てる。
「んっ……」
「ここ、触られるの、嫌?」
一度手を離すと、お顔をさらに赤くして。
「……嫌じゃない……」
消え入りそうな小声で、そう呟いてくれた。
「うん、ありがと。じゃあ、もう一度、触らせてね」
トクン、トクン。
当てた手に伝わる、心臓の鼓動、一つ一つが……とっても、愛おしい。
「お兄ちゃんは、ほんとに優しいよね。つらい思いをしてきてるのに、そんな心の中を知らなかった私のわがままに、ずっと付き合ってくれた。きっと自分では、人への恨みを心の奥に抱えてること、後ろめたく感じてたんだよね。でも、そう思えることって、お兄ちゃんが優しい証拠なんだよ。どんなときでも、心のどこかでは人の気持ちを汲み取ってる。私と一緒にいるときだって、そう。特別に主張せずに、そっと思いを手渡してくれて……そんな穏やかな優しさが、ずっと愛しいの」
胸に当てた手を、小さく円を描くように滑らせると。
「……んっ……」
お兄ちゃんは目を閉じて、また、くぐもった小声を出して。
「……嫌じゃない、から……やめないで……」
潤んだ目を開けて、そう言ってくれて……私はその幸せを、ゆっくり味わった。
「うん、お兄ちゃんが喜んでくれてるの、分かってるよ。ずっと表に出させてあげられなかったけど……ほんとは甘えんぼさんだもんね。恥ずかしがってるのもかわいくて、これからずっと甘やかしたいくらいなんだから」
「……ゆ……結、華……」
もう……恥じらってるお兄ちゃんを見てると、幸せが体に収まりきらないよ!
「……どう? お兄ちゃんへの私の気持ち、ちゃんと伝わった? それとも、まだまだ足りない?」
「……大丈夫……いっぱい、伝わった、から……」
私が手を離して立つと、お兄ちゃんは上目遣いで、息がちょっと乱れてる。
やりすぎちゃったかも……ごめんね?
「私のこと、ヒーローとして見てくれる? 自分がヒロインなのは、嫌かな……?」
お兄ちゃんは、困り眉のまま、ためらいがちに呟いた。
「……ヒーローは……こんな関係、許してくれない……」
うん。正義って、きっとそういうものだよね。
「そうだね。正義のヒーローだったら多分、お兄ちゃんに向かって、ロリコンだとかなんだとか言うんだと思う。けど、私は違うよ」
今度は両手を、自分の胸元に当てる。
「正義のヒーローじゃないから、みんなの力にはならないし、卑怯な手だってためらわずに使っちゃうかも。そもそも見た目だって、全然ヒーローっぽくないし……ていうか、ヒロインみたいにしか見えないよね? えへへ……」
きっと周りからは全然かっこよく思われないけど、この外見だってお兄ちゃんが好きになってくれてるんだから、これでいいの。
「だけど、お兄ちゃんのことだけは絶対に守り抜いて、幸せにしてみせる。そのためなら、体でも、頭でも、立場でも、自分が使える力をなんだって注ぎ込む意志があるんだよ。お母さんとお父さんになんて今すぐにでも、一緒にいる私たちのこと、認めさせるの。私は、そんな……お兄ちゃんだけのヒーロー」
右手を離して、お兄ちゃんに差し出す。
「正義のヒーローがお兄ちゃんのこと、私をさらってる悪者だって決めつけてやっつけにきたって、私がお兄ちゃんを守りながら、そいつを返り討ちにしちゃう。お兄ちゃんのヒーローだもん、それくらい強くなれるよ。だから……私と、ずっと一緒にいて?」
ずっとぐずついてた空に、いつのまにか広がってた、青い隙間。
そこから差す光が私たちを、熱いくらいに照らしてる。
「……結華……」
ゆっくりと、私の手を掴んで、立ち上がって。
息を吸って……お兄ちゃんなりに大きい声で、答えてくれた。
「……一緒に、いさせて……!」
お兄ちゃんをぎゅっと抱き寄せて、そのままお顔を見上げる。
「目、閉じてくれる? それとも……私の顔、見てたいかな?」
「っ……!」
お兄ちゃんは、また頬を赤らめながら、きゅっと目を閉じた。
私はかかとを離して、世界一かわいいお顔に近づいて……。
「……んっ……!」
お兄ちゃんの唇は、薄いけど、ふんわり柔らかい。
そっと離すと、お兄ちゃんはとっても恥ずかしそうで、とっても幸せそうで……小さく震えたのが、くっついてる体に伝わった。
「えへへっ……お兄ちゃん、愛してるよ。絶対、何があっても離さないから!」
手をつなぎなおして、帰り道のほうを向いたら、その先の空には大きな虹がかかってる。
「それじゃ、帰ろっか!」
「……うん……結華……迎えに来てくれて、ありがとう……!」
「お兄ちゃんも、私を受け入れてくれて、ほんとにありがとっ。ゆっくり歩いてこうね!」
お兄ちゃんの手を引いていって、これからたくさん幸せにしてあげるんだ。
それが叶うなら、道の途中が険しくたって……きっとどこまでも、一緒に歩んでいけるよ!
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