第6話
怪火がほのかに照らす下位区域の夜道を、息を切らしながら夢中になって走る。
しかし、背後からの足音と声は消えることなく、一華と璃音に狙いを定めて執拗に追ってきていた。
「警備隊は……どこにっ」
助けを求めようと警備隊を探すが、今夜に限って見当たらない。
いつまでも一本道を走っているわけにもいかず、一華は脇道に逸れると、建物の角を何度も曲がって追っ手を巻いていった。
(お願い、お願い。もうついて来ないで……!)
祈るように狭い路地を走ること数分、急に視界がぱっと広くなる。
「ここは……」
「一華姉、ここ……黒曜山だよ!」
いつの間に、こんなところまで来ていたのか。
月明かりもなく、怪火や街灯もない通りの先に、ぽつんとある石造りの階段。
その奥は多くの大樹が地から根を生やし、空に向かって天高く生い茂っている。
黒曜山。下位区域にある裏山で、黒の大天狗家の許可なしに入ることは許されない場所だ。
「おい、こっちにいたぞ……!」
そんな声が聞こえて振り返ると、いくつかの光の反射が見えた。たった数秒、立ち止まっていただけで男たちに追いつかれてしまった。
このままでは捕まってしまう。捕まったら最後、自分たちはただでは済まないはずだ。
「璃音、私を信じてついてきてくれる……?」
震えそうな声をかき消すように、一華はさらに声を張る。繋いだ璃音の手をぎゅっと握りしめ、ゴクリと喉を鳴らして目の前の黒曜山を見据えた。
これが、運命を大きく変える分岐点とも知らずに、一華は歩みを進める。
黒曜山……そこは黒の大天狗が代々、管理を続ける特別な禁域。それは妖歴元年からと、とても長く、深い歴史が眠っていた。
「一華姉、一華姉ってば! ここ、入って大丈夫なの?」
珍しく怯えた様子の璃音を見れば、黒曜山がどんな扱いをされているのか理解できる。
黒の大天狗家の者以外の侵入を禁じている場所だ。下位区域の人間である一華や璃音が入ったことが知られてしまえば、間違いなく咎められてしまう。
「だけどいまは、これしかないの……っ、ごめんね、璃音、本当にごめんね……っ」
一華の足裏はすでに傷ついてぼろぼろだ。おそらくそれは璃音も同じで、こんなことに巻き込んでしまって申し訳なさが募っていく。
それでも、後ろからの気配はやまない。追っ手も黒曜山に入って来たのは完全に誤算だった。
(どこかに、隠れないと)
素足の自分たちと、靴を履いた彼ら。徐々に距離が縮まっていることには気づいていた。
そして茂みを掻きわけてしばらく森を進んでいれば、近くの大樹の根っこに大きな穴を見つける。
(この大きさなら、璃音が入れる……!)
昔は山の生き物が沢山住んでいたという話だが、現在ではそういった情報を聞かない。ということは、この穴も動物の住処というわけではなさそうだ。
「一華姉、なにしてるの?」
一華は念のため、近くの小石を掴んで穴へと投げ入れる。小さく音が響くだけで、それ以外の反応は何も返ってこなかった。
そして、怪訝な顔をした璃音の肩をそっと掴む。
「璃音、落ち着いて聞いてね。施設長は、私をどこかに売ろうとしていたの。援助金と引き換えに私が十八歳になったら引き渡すようにって、そう約束していたみたい」
「う、うそ……そんな」
「いきなりこんなこと言われても信じられないよね。私も、信じたくない……だけど、本当なの」
きゅっと唇を噛んだ一華は、璃音を安心させるようになんとか自身を保つ。
「ごめんね、璃音まで巻き込んで。でも、あの場にいたら、璃音もどうなっていたのかわからなかったから……」
自分以上に、大切な弟に手が出されていたかもしれないと思うと恐怖でどうにかなりそうだった。
幼少の記憶を失った一華にとって、同じ火災から助け出された弟だという璃音の存在は、ずっと心の支えだったのだ。
「だから、璃音。ここに隠れていて。もう、私も璃音も走るには限界だから、身を隠してやり過ごすの」
「だけど、一華姉は……!」
「私はもう少し、あの人たちを撒いてから別の茂みに隠れる。大丈夫、必ず迎えに行くから」
璃音を不安にさせないように、めいいっぱいの笑みを向ける。
そのとき、近くで男たちの声が聞こえてきた。
「璃音、穴の奥に入って、早く!」
璃音が穴に入ったことを確認し、一華は近くにあった草木をかき集めて入口を隠すように塞いだ。
執拗に足元を照らさなければ、まず気づかれることはないだろう。
「璃音、絶対に戻ってくるから。約束する。それまで待っててね……!」
そうして一華は、さらに森の奥へと走っていった。
璃音が心配で後ろ髪を引かれながらも、一華は足を動かす。
「はあ……はあっ」
息も絶え絶えになり、限界はすぐそこまで迫っていた。
「……あっ!」
突然、目眩が襲ってきて、かくんと脚の力が抜けていった。
地面に体を叩きつけられ、腕や頬にちくりと痛みが走る。
(こんな、ときに……どうして)
今朝、少しだけ熱っぽさを感じた体が、ぶり返すように熱くなり始めていた。
視界がかすみ、意識がぼんやりとする。
(どこかに、隠れないと……)
一華は力を振り絞って立ち上がり、周りを見渡した。
すると、左奥の木々の先に、真ん中がぽっかりと空いて通り道のようになっている建造物が立っているのを見つけた。
その建造物の奥には木製の小屋があり、片方の扉が少しばかり開いているのが確認できる。
(ひとまず、あの中に)
一華はふらつきながら、なんとか建造物を潜る。
そして小屋の扉に手をかけ、中に入った。
傷んだ扉を押し開けば、キィと木の軋む音が鳴る。
小屋の中は、五畳ほどの広さがあった。
外よりもさらに視界は暗くなりとても不安定だ。手を前にして進まなければ躓いてしまいそうになる。
一華はその場にしゃがみ込むと、扉にもたれ掛かるようにして外の様子を窺った。
(……痛い)
ズキ、ズキ、と。脈打つような頭痛に一華は額に手を当てた。
本当に脈が速くなっているのかもわからない。耐えがたい緊張で口の中が乾き、恐怖の足音がして吐きそうになる。
転んで擦った怪我も、鉛のように重くなる体も、この状況ではことさらに煩わしい。
(お願い、お願い……来ないで)
しかし、その切なる祈りは届かなかった。
「おい、そこの小屋……隠れているかもしれない。探すぞ!」
声が聞こえてきて、一華の顔がサッと青ざめた。
複数の足音が近づいてくる。
一華は急いで扉に手をかけると、外から開けられないように体全体で強く押さえた。
「なんだ、開かねぇぞ。おい、いるんだろ! さっさと開けろ!!」
中に人がいると確信したのか、怒号に近い声が何度も飛んでくる。
(嘘でしょ……声が、増えてるっ)
気のせいだと思いたい。けれど、確かに二人だけだった男の声が、いつの間にかそれ以上に増えていた。
「諦めたらどうだ? 話を聞いたお前には、もう逃げる道なんてねえんだよ」
随分と余裕そうな声音がひとつ。恐らく施設長と話していた男のものだ。
少し遠くから聞こえてきたので、扉を押しているのは、 別の者たちなのだろう。
「……っ!!」
その時、必死で扉を押さえていた一華の手に激痛が走った。
劣化した木の扉の形が崩れ、まるで大きな棘のようになって一華の手のひらを深々と突き刺さったのである。
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