第5話



 それからしばらく歩を進め、施設の門前まで近づくと、見慣れない一台の蒸気自動車が視界に入った。


(この時間に来客だなんて、誰だろう?)

 

 里親候補の大人が日取りを決めてやって来ることはあるが、それは決まって昼間である。

 事前に訪問予定が入っているときは、施設長があらかじめ知らせてくれるのだが、今朝はそれもなかった。


 音を立てないように開けた玄関扉の先には、曇りなく磨かれた革靴が二足ある。どれも男性用だ。

 耳を澄ませると、食堂のほうから話し声が聞こえてきた。


「今日で十八になったんだろ? だったら今夜連れて行ったって変わらないじゃねぇか」

「勝手なことを言わないでちょうだい。こっちにだって順序ってものがあるのよ」

「そりゃないだろ。こっちがこれまでいくら金を払ってると思ってんだ。少しは融通効かせてくれてもいいんじゃないのか?」


 十八という言葉に、心臓がびくりと震える。

 なにか聞いてはいけない内容なのではないか。それを彷彿とさせる会話に一華は自分の手のひらを握りしめた。

 ゆっくりと、食堂に繋がる扉に手を添える。

 少しだけ空いた隙間の向こう側から、薄ぼんやりとした照明の光が漏れていた。


「ともかく、今日は帰ってちょうだい。ここで待ち伏せていてもあの子はまだ帰って来ないわ。毎日身を粉にして働いているんだからね」

「はっ、よく言うぜ。施設ここにも金を入れさせてんだろ。酷いことさせるよな。それを全部散財させてるんだからよ」

「酷い? 強制なんかしてないわよ。あの子が勝手にしていることなんだから」


 ……あの人は、誰?

 脳内で、そんな疑問が浮き上がった。


 信じられないが、見知らぬ男たちに吐き捨てるように言ったその人は、一華が養母だと慕っている施設長だったのだ。


(一体、どういうこと? 何を話しているの?)


 すべてを把握したわけではないが、ずっと前から胸騒ぎがしていた。

 堅気ではない雰囲気の男たちに、臆する様子もなく話を続けている施設長は、まるで別人のようだった。


 そして自分のことを話しているのではないかと気づいたとき、不穏な直感が一華の頭を過ぎったのである。


『今日で十八になったんだろ? だったら今夜連れて行ってもいいじゃねぇか』


 ……男は、誰を、どこに、連れて行くつもりなのだろうか。


「一華姉?」


 そのとき、左耳に馴染んだ声が響く。一華はおそるおそる顔を横に向けた。


「璃、音」


 寝着ねまき姿の璃音は、片目を擦ってこちらを見つめていた。

 すでに就寝していたのだろうか。眠たげな面持ちは、いつもより一段とあどけなく感じる。


「一華姉、帰ってたんだ。今日は早かったの?」


 ぺたぺたと素足の音が近づく。

 目の前に璃音がやって来たとき、一華は今まで聞こえていた会話が途切れていたことに気がついた。

 はっとした瞬間、食堂の扉が勢いよく開かれる。


「今の話、聞いてたな?」


 瞳を不気味なまでにカッと開いた男は、静かに見下ろしてそう問うた。

 

「……っ」


 すごみに気圧され、呼吸が浅くなる。

 一華の目の前にいる男は、上等な背広を身に包んでいた。

 この下位区域では滅多にお目にかかれない装いは、おそらく中位以上の人間であると予測がついた。


 嘘でも平静を保つべきだった。

 しかし、それはもう遅すぎたのだ。


「その顔は……聞いてたんだな?」


 男の目つきが変わる。

 そして、一華の全身を舐めるように上から下まで確認すると、邪に口端を笑わせた。


「よし、連れて行くぞ」


 男は不意に背後を振り返ると、もうひとりの連れにそう告げた。そこに主語はないが、どんな意味を持って言われた言葉なのかが容易に想像がついてしまう。


「ちょ、話が違うじゃないの!」

「そんなもん、今の話を聞かれちまったんだから仕方がねぇだろう」


 納得がいかない様子の施設長が抗議に入るが、男は決定を覆す気がないようだ。


「あなたたちは、一体誰なんですか……っ」


 やっとの思いで絞り出した一華の声音はひどく震えていた。

 だが、ここで引くわけにはいかなかった。

 すぐ近くには璃音がいる。もし璃音にまで危害が及ぶようなことになれば、姉として見過ごすわけにはいかない。


「名乗るほどのもんじゃねえさ。俺たちは、ただの運び屋だ」

「運び、屋……?」


 一華はさらに警戒を強める。

 すると目の前の男は煩わしげに舌打ちを鳴らし、後ろを振り返って乱暴に言った。


「もう面倒だ。いいだろ、こうしてばったり出くわしちまったんだからな。今夜、連れてくぞ」


 施設長に向けての言葉だったのだろう。

 声を投げかれられた当人は、苦々しげな面持ちで視線を下降させていた。


 一華は、その一瞬の隙に行動を起こすべく頭を働かせる。


(連れていくって、私のことなんだ)


 そうでなければいいと思っていたが、状況は刻一刻と悪くなっていた。この瞬間を逃せば、おそらく……。


「一華姉? この人たち、だれ……」

「璃音、きて!」

「えっ、一華姉!?」


 一華は寝ぼけ頭の璃音の手を引き、勢いに任せて駆け出した。

 玄関扉を素早く開き、外へ飛び出す。靴を履いている余裕はなく、背後で素っ頓狂な声を出す璃音も素足のまま走っていた。


「ちょ、一華姉ってば! なんで外になんか……っ」

「璃音、お願い。今はただ全力で走って!」


 説明できるのならばしたい。けれど、実のところ一華もすべてを理解したわけではなかった。


 ただ、あの場に居続ければ自分たちは間違いなく危うかったはずで。その証拠に、


「……っ、ちっ、おい待て!」


 一華と璃音のさらに後ろからは、二人を追跡する足音が聞こえていた。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る