第17話 揺れる水


 コップや皿に水をいれて、全ての部屋に置く作業をオスカーがせっせとしている間、レイは手になにも持たないまま、家の中を歩き回っていた。


 寝室にはダブルベッドが置かれており、他にあるものと言えば、青い尾鰭を揺らめかせながら泳いでいる魚が一匹だけいる水槽とランプとチェストくらいだった。床には、オスカーが用意した水が入った二つのガラスのコップがある。


 リビングは二人掛けのソファーと一人用のソファー、丸椅子が一つずつ置かれており、その中心には木目調のローテーブルが置かれている。テーブル上には、水を入れた皿が置かれている。


 リビングから続いているアイランドキッチンには冷蔵庫と流し台とコンロがあり、調理台の上には、水が入ったコップがある。


 トイレと風呂がある部屋には、洗面台に水が入ったコップを置いておく。


「あとは玄関にも置いておこう。ベランダにもだ」


 オスカーに指示を出している間、レイは一切手伝わなかった。オスカーが指示通りにコップや皿を置いたのかを確認したり、クローゼットやチェストの中を開けて確認していた。プライバシーなどは関係ないらしい。


「お前もやってくれよ!」

「俺は観察に忙しい。そら、すでに歓迎されているみたいだぞ」

「は?」


 レイの言葉に、オスカーは思わず水をコップに入れる手を止めて、レイのいる寝室へと向かった。すると、寝室の床に置かれていたガラスのコップの中に水がゆっくりと左右へ揺れていた。


「本当に揺れてる……」

「この建物自体が揺れているわけでもない。揺れているのはこのコップの中の水だけだ。それに、この部屋には二つもコップがあるのに、そのうち片方しか揺れていない」

「なぁ、本当に解決できるのか?」

「疑問に思う暇があるのなら、手を動かせ」

「はいはい……」


 オスカーには、どうにもレイの考えが分からなかった。しかし、分からなくて当然だとすぐに納得する。


 先月、泥棒退治人をしていたオスカーを捕まえた時も、レイは彼には想像もつかない方法で彼のことを誘き出した。それはオスカーが持っていたロケットペンダントの中に封じられた悪魔についてよく知っていたから予測ができたというのもあるかもしれないが、なによりもあの馬鹿馬鹿しい作戦を実行まで持っていくことができた彼の手腕が大きいだろう。

 なにをさせられているのか納得していない人間をとりあえず従わせることをカリスマと言っていいのなら、レイはそのカリスマによってオスカーに勝利したことになる。

 だからこそ、オスカーは文句を言いつつ、疑問を感じつつ、レイに従った。

 レイに従っていればなんとかなるだろうと思いつつ、レイに逆らったら後が面倒だと渋々従っている。実際、後者の気持ちの方が大きい。やはり、レイが持っているのはカリスマなどではなく、人に面倒だから従っておこうと思わせるほどの融通の利かなさがあるだけではないのか、とオスカーは納得した。


 そんなことを考えつつ、ようやく家中に水をいれた食器を配置し終えたオスカーがソファーに座ろうとすると、レイが待ったをかけた。


「なに座ろうとしてるんだ? 洗面器や風呂にも水を溜めろ」

「……はいはい」

「ああ、そうだ。それをしたら、とりあえず、お前のやることは終わりだから、風呂にでも入ってろ」

「え? いいの?」

「もしかしたら、泊まりになるかもしれないからな。先に入っておけ」

「レイは?」

「もしそうなったら、俺は家に帰って自分の家で風呂に入って、自分の家で寝る」

「俺をここに置いて?」

「何か問題でも?」


 オスカーはがっくりと肩を落とした。


 どう考えても自分への扱いがひどいのは分かるが、それでも逆らえないのは、この生意気な少年が自分の雇い主だからだろう。


 落ち込んではいられない。風呂に入っていいと言うのなら、そうさせてもらおうとオスカーはシャワールームに行き、風呂に湯を溜め始める。

 実を言うと、オスカーはわくわくしていた。普段彼が暮らしている場所で身体を洗うとなれば、共有のシャワー室を使わないといけない。夜に使おうとしても、他の入居者も使うため、さっさと出ろと急かされる。もちろん、湯舟はない。そのため、次に人が入らない上に一人で湯舟に浸かることができる今の状況に浮足立っていた。


 それ故、油断していた。

 この家の中の異変の中心は、水であることを失念していたのだ。


「レイ、本当に入っていいんだなー?」

「いいぞ」


 オスカーがシャワールームの扉を開けて尋ねると、寝室の方からレイの言葉が返ってくる。

 雇い主に許しをもらえたのだから、とオスカーは扉を閉めると、さっさと服を脱ぎ、湯舟に手を差し入れた。少し熱いが、お湯の中に入れた手をすぐに引き抜こうと思う程の熱さではなかったようで、オスカーは恐る恐る足を湯の中に入れた。

 湯舟の中で腰を下ろし、肩まで湯に浸からせて、大きくゆっくり息を吐きだす。


「俺もいつか自分の家を持つようになったら、これ欲しいなぁ~」


 自分の家を持つことができるほどのお金を持っているわけでもない。ましてや、家を買うための貯金をしているわけでもないが、オスカーの口からは今まで考えてもいない願望が漏れていた。

 それほど、ゆっくりと湯に浸かっている今の状況が心地よかったのだろう。


 しかし、それは束の間だ。


 オスカーが湯の中でじっとしているのにも関わらず、彼が浸かっているお湯が左右へ揺れ始めた。


「……ん?」


 最初、目を瞑っていたオスカーは気づかなかったが、自身の身体が左右に揺れているのを感じると違和感に目を開ける。


「え?」


 水面が左右へ、前後へ、ゆらゆらと揺れている。もちろん、オスカーは自分から動いていない。栓を抜いたわけでもない。

 それなのに、一人でに水面が揺れる。


「レイ!」


 オスカーは寝室にいるはずのレイを呼ぶが、返事はない。こんな時に限って、と舌打ちをしながら、湯舟から出ようとしたオスカーだったが、その持ち上げた足をお湯に掬われたかのように湯の中でひっくり返る。


「はっ⁉」


 ごぽりと開いてしまった口に勢いよく湯が入り込んでくる。両手をばたつかせて、なんとか顔を出して息を吸い込む。

 もはや、湯が揺れているのか、オスカーが揺らしているのか分からない。


「レイ、助け――ッ」


 オスカーの必死の助けさえも、波のように盛り上がった湯が彼を包み、覆い隠そうとする。


 その瞬間、オスカーの右腕を素早く何かが掴んで、お湯から引き上げた。


「大丈夫ですか?」


 オスカーはげほげほと口の中に入ったお湯を吐き出しながら、自分を持ち上げた人物を見上げる。左手に買ってきたらしいテイクアウトのサンドイッチの袋を抱えたムゲンは、右手でひょいとオスカーを引き上げて、床に降ろした。


「レイに人助けを求めても無駄ですよ」


 げほげほとオスカーが咳き込んでいると、開いた扉の向こうから興奮気味に頬を紅潮させたレイが覗き込んできた。


「原因が分かったぞ! ほら、二人とも、寝室に来い!」


 オスカーは自分の心配さえしない雇い主を見て「こんなことなら浮浪者達の方に捕まってた方がよかった……」と天を仰いだ。

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