第6話 トロワ
「ちょっとあんた達! いったいなんの用でここに来たの⁉」
いきなり現れた赤いワンピースに白いエプロンの少女の姿にレイとムゲンは目を丸くした。
亜麻色の髪を後頭部の高いところで結んだポニーテールをゆらゆらと揺らしながら、少女はデッキブラシの先をレイとムゲンに向け、青い瞳でキッと二人のことを睨んでいた。
「いったいなんの用って……お前の方こそ、なんなんだ?」
向けられているのは拳銃ではなくデッキブラシだが、少女の剣幕にレイは両手を頭の横にあげながら、質問をした。少女に脅威を感じたわけではないが念のためだ。
「私はここの管理人よ!」
「管理人……? オーナーはスチュワードさんのはずじゃ」
「パパに会ったの?」
「パパ?」
「ここのオーナーは私のパパなの。パパに会ったってことはあんた達は新しく入居したがってるってこと? でも、無理だから。これ以上お金を払わない人達が来ても、うちにはお金はないし、誰かのお世話はもううんざり!」
少女は、デッキブラシの先を床にたたきつけた。
べしゃっとデッキブラシの先についた水が床に広がる。
ムゲンはレイと少女を見比べた。
レイの方が背は高いが少女とレイは年齢こそ近いだろう。自由奔放にやりたい放題の上に、悪魔の解放なんて道楽にいそしんでいるレイとは対照的に、この少女は父親がオーナーを務めているアパートメントの掃除を担っているのだ。
しかも、あの父親が運営をしているのだ。儲けなどないに等しい。掃除をいくらしたところで、お小遣いをもらえるわけもないだろう。しかし、このアパートメントに二人が入った時から今に至るまで、廊下が汚れていたことはない。
この少女が見返りもなしにせっせとアパートメントの廊下を綺麗にしているのだ。
「俺達は確かに入居希望だが、お前が考えているみたいにお金を出さない奴らじゃないぞ」
「え? そうなの?」
少女は目を丸くして、レイとムゲンをその青い瞳で見た。
二人の身なりを確認して、ようやく二人がいつもこのアパートメントを占拠している金無しの連中とは違うのだと理解したようで、彼女は慌ててデッキブラシで床をこすると、先ほどまでレイたちに向けていたデッキブラシを背に隠した。
「やだ……! それなら先に言ってくれたらよかったのに! 私ってば、勘違いして」
「分かってくれたらいい。正直者は嫌いじゃない」
レイは頭の横にあげていた手を下げて、くつくつと喉を鳴らせて笑った。
レイからすれば、向けられている感情がプラスであれ、マイナスであれ、正直に伝える人間は好ましいのだ。
少女は幾分か警戒を解いてくれたものの、今度は眉を八の字にした。
「でも、ごめんなさい。お金を払ってくれるとしても……パパから聞いたと思うけど、今は空いている部屋がないの。それもこれも全部、あいつらが……」
少女がぼそぼそと口ごもると、それを聞いていたらしい男が開いた扉から顔を覗かせた。
このアパートメントに来て最初にレイの質問に答えた男だった。日に焼けた顔をしている痩せぎすの男はいかにもゴロツキといった顔つきで少女を見る。
「おう、トロワ! もしかして、俺達がここにいるのがイヤだって言うんじゃねぇだろうなぁ?」
トロワと呼ばれた赤いワンピースに白いエプロンの少女が唇を噛んで視線を落とす。そんな少女をさらに追い詰めるようにゴロツキは言葉を並べ立てる。
「お前の父親が俺達のことを善意でここに住まわせてくれているっていうのによぉ~。娘のお前がその善意を踏み握るってことはどういうことか分かってるのかぁ? 善意は美徳だって言うのに、まさか、お前は悪魔の狂信者かぁ?」
「そんなことは……」
「いいじゃないか、悪魔!」
ムゲンがレイの肩に手を置くよりも先にレイが足を踏み出して、トロワのことを庇うようにゴロツキの前へと出た。ムゲンが額を両手で押さえる。
「最高な響きだ! 善意が美徳だっていうのは分かるがどうにもむず痒い。いや、善意はいいんだ。それはいいことだ。でも、善意がいいことだって言うのなら、そのいいことをした人間が馬鹿正直に馬鹿な目に遭うのはいただけない。正直者が馬鹿を見るのは、正直者の正直を利用するような善意とはかけ離れた奴がいるからだ。そのくせ、そういう奴らは善意を行う時は非常に醜い顔をしながら善意を行う!」
ゴロツキの男は先程までトロワに詰め寄っていたことを忘れて、レイを指さして「こいつ、お前の知り合いか?」というように困惑した表情をトロワに向ける。トロワはぶんぶんと首を横に振った。
それはそうだろう。人がいないとはいえ、いつ他人が通りがかるか分からないこの廊下で、善意の教えについての考えを大声で述べる人間とお近づきになりたいような人間はいない。
「見せかけだけの善意よりも、分かりやすい悪意の方が何倍もいい! そうだろう!」
「いや、俺は……分からねぇな……」
さすがのゴロツキもこいつには付き合ってられないと思ったのか、そそくさとレイから視線を逸らして、アパートの部屋へと入り、扉を閉めてしまった。
「持論くらい語って行けよ」
レイは行儀悪く舌打ちをすると、ようやくムゲンが大きなため息を吐きながら、レイの口を後ろから両手で押さえた。
「お騒がせして申し訳ない、お嬢さん」
「あ、いえ……」
「レイと私はとある事情で事務所が欲しいんですが、この通り、他のオーナーには断られてばかりで……できれば、話が通じるスチュワードさんのところで部屋を借りたいと思っているのですが……」
レイは自分の口を塞ぐムゲンを恨めしそうに見上げた。ムゲンはそんなレイの視線を無視して、トロワに話しかける。いつもアパートメントの掃除ばかりで、話すとしても父親かゴロツキ相手のトロワからすれば、顔が整っている男性に「お嬢さん」と言われるのは、初めてだろう。
トロワは少し顔を赤らめながら、前髪を指先で触って、位置を調整した。
「私も……できれば、お金を持ってる人に借りてほしいと思うけど……あいつらが出て行かない限りは、どうしようもないかな。それに、あいつらが出て行ったとしても、盗みとかできないから外で死ぬしかないと思うし……」
「盗みができない?」
ムゲンの言葉にトロワはこくりと頷いた。
「この街には、泥棒退治人がいるから」
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