遠足当日(光希)
捻くれた女を愛した男
非日常は人を大胆にさせる。
光希が見たのは、いつも喧嘩をしているような少年と少女が真っ赤になって顔を突き合わせている光景だった。
甘酸っぱいねえ、と目を細め、弁当箱を開ける。巻き損ねた卵焼きはところどころ焦げていた。
他にも数名、これは他学年だが、カップルが同じシートに座ってお弁当を食べたり、手を繋いで歩いたりする姿も見かけた。
光希が小学生の頃は、そんなこと考えられなかった。好きな子がいても黙っているのが当たり前で、付き合うと言う概念がまだなかった。
初恋のあの子を思い浮かべる。
十年以上前に記憶の中で時を止めた長い髪の少女。好きだと言われて、嬉しいと答えた。
それから何も起きなかった。今の子たちのように二人きりで過ごすこともなければ、手も繋ぐこともなかった。
結局、彼女とは中学に上がると同時に、自然消滅という形で別れた。よくある話である。
大学生になって男女がすることを覚えても、長くは続かなかった。
付き合う前の律に「下手なんじゃないの?」と言われたことを思い出す。最初に押し倒した時は、ギャフンと言わせてやらあ、という復讐の気持ちが半分だった。
全力で行為を終えて律に迫ると、彼女は恥じらう様子もなく、煙を吐き出して「悪かない」とだけ答えた。
その諦めたような横顔に悔しいほど痺れた。敵わないと思った。それから一筋縄ではいかない彼女に深く惚れ込んでいくことになる。
律はいつも予想の外を行く。
プロポーズした時もそうだった。
てっきり女という生き物は、ダイヤのついた指輪をパカっとさせて「結婚してください」と言えば、涙を流して喜ぶものだと思っていた。両手で口を覆い、涙を滲ませた瞳を潤わせながら「喜んで」と男の胸に飛び込む。そんなどこで見たかも知らないドラマのようなシーンを想像していた。
正直、律がドラマの女のようになるとは思えなかったが、それでも喜んでくれるとは思っていた。
いやはや、まさかあんな顔をさせてしまうとは。
ダイヤの指輪を前に、律はしばらく呆然とした様子で立ち尽くし、その後ようやく口を開いたかと思えば、出てきたのは「はあ」の二文字だった。
「はあ」だと?
ど、どういう意味だ。
もしかして、俺は今から断られるのか?
とドギマギしている光希と目を合わせようともしない。ずっとふかふかのカーペットの縫い目を数えるように眺めていた。
「嘘。律って、もしかして、俺と結婚したくない?」
たまらず聞いた光希の震えた声に、律はハッとした様子でようやくこちらを見る。
目の前の彼女は喜んではいなかった。だからと言って拒絶している様子でもない。どういう表情なのかわからなかった。
ただし肌はいつも以上に白く、青ざめているように思えた。
「ごめん」
絶望しかけた光希の頬に、律は腕を伸ばす。その小さな腕は震えている。
「光希となら、結婚する」
そしてその顔のまま、取り繕ったようにぎこちなく口角を上げてみせる。喜びとはいえない自身の反応を、悪いとは思っているようだった。
「こんな可愛くない女にプロポーズしてくれてありがとう。指輪も嬉しい。わからないかもしれないけど、すごく嬉しいんだよ。
光希が私を思ってくれていることが嬉しい。でもね、急のことでしょ。人の人生を背負う覚悟があるのか、光希を幸せにできるのかって考えたら、覚悟がつかなくて、返事できなかった」
「何を言ってるんだ。俺は律と一緒にいられるだけで幸せなんだよ」
「ありがとう。光希は強いね」
「強いわけじゃない。律のことが好きなだけだ」
「ああ、もう。眩しくて見てらんない」
そこまで言うと、彼女は高級ホテルのベッドにうつ伏せに倒れ込んだ。
それからは何を言ってもダメだった。夜景が見えるよと誘っても、指輪つけてみてよとお願いしても、動かなかった。仕方なく風呂に入り、髪を乾かして出てからも、彼女はずっと同じ体勢で横たわっていた。
背中からそっと抱きしめた時に初めて気づいて驚いた。
律は静かに涙を流していた。
律は、独特な哲学を持つ女である。
簡単に言ってしまうと、真面目すぎるのだ。
だからこそ人が気にしないようなことに悩み、他人の価値観と違うことに落ち込んで自分を責めては涙を流す。
「結婚って、幸せなのかな」
律がそう言ったのは区役所に婚姻届を出した帰りだった。
「何言ってんだ。俺は律を妻にできて幸せだよ」
そう言ってやると、妻は俯いて口を尖らせる。
「でもそれは、結婚したからじゃないでしょ。私は光希と一緒にいるだけで幸せだし、夫婦になった今もそれは変わらない。
なのに結婚が絶対的に幸せと言われる意味が分からない。そんなにめでたいことなのかな」
「一生を添い遂げる覚悟を互いが見せたからだろ。俺は今後、律以外の誰も愛さないって意思表示だ。お前も俺以外の男を愛さない。そうだろ?」
助手席に乗り込んだ律は、まだ不服そうだった。そんなもの、と言っているような気がした。
光希は、その無言に含まれた意味を肯定した。
「もちろん。そんな覚悟、公にしなくたって、行政に認められなくたって変わらないよ。たとえ結婚しなかったとしても、俺には律以外なんて考えられない。
まあ、こんな平凡なメガネ越しに生きてる俺が何言ったって響かないとは思うけど、でも、これだけは言わせて。大切なことだから、律が納得するまで、何度でも言う」
愛してるよ、律。
律は納得のいかない表情はそのままに、それでも少し頬を緩めた。それから黙って窓の外を見つめる。その様子に少しだけホッとして、車のエンジンをかけた。
ありがとう、光希。私も愛してる。
そう言われたのは、新居の鍵を開けて、完全に二人きりになってからだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます