ばら撒かれたおはじきと対岸の火事
「学校におはじきを持ち込んでいる生徒がいるんだよね」
ベランダにつながる窓を開けると、光希がベッドに横たわったまま話しかけてきた。
振り向かずに「へえ」と呟く。細い煙草に火をつける。本当はピアニッシモじゃなくてセッターを吸うような女になりたかったのだが、どうにもタールが多すぎて受け付けない。
「流行りなのかな。不要なものは持ってくるなって言ってるんだけど、聞いてくれなくて」
ため息をつく光希に煙を吐きながら笑って見せる。
「舐められてんじゃないの?あんた、優しそうだし」
「そんなことない。俺だって怒る時は怒る。危ない時はちゃんと大声も出せる。違うんだよ。誰が持ってきてるのか分からないんだ。
取り出して遊ぶでもなく、交換するでもなく、ただばら撒いてあるだけ。それも決まって誰かが間違っても踏まないような場所だ。ゴミ箱の裏とか、ロッカーの中とか」
「ふうん」
想像する。教室の隅っこに水たまりの如くばら撒かれたガラスの玩具が、鮮やかに影を落としている様子を。
なんの面白味もない感想を抱く。
「芸術的だね」
「適当言いやがって」
光希はふわあ、とあくびをした。それからモゾモゾと枕に顔を押し付ける。彼が目を閉じたのを見届けてから、視線を外に移した。
星は見えない。深い海の底のような暗いだけの空が覆っていた。周辺の家の照明は落とされ、遠くの方にポツポツと点滅する黄色信号が見える。
動くものはそれしかない。あったとしても、たまにトラックが何を載せているのか分からない荷台をガタガタ言わせて通るだけだ。
煙を吐き出す。
愛されたばかりの身体は熱を持ったまま、欲深く考える。
幸福とはなんだろう、と。
燈子の結婚と妊娠を、おめでとうと言えなかったことでようやく気づいた。
律はそれを“めでたいこと“だと認識していないのだ。
燈子は当然、その言葉を引き出せると思っていただろう。今頃夫となる男に文句でも言っているかもしれない。りっちゃんったら、また捻くれて。おめでとうも言わずに、“順番が違う“とだけ言って帰ったのよ、と。
だが今更電話をかけてまで言ってやるほどでもないと思っているのが正直なところだ。燈子は嫌でも痛感したことだろう。かねてからの親友はそういう女である。
思えば自らが婚姻届にサインした時も、そんなものだった。
おめでとう、とあらゆる人に大袈裟に祝われて初めて、そうか、めでたいのかと思った。役所に書類を提出し、身分証明やクレカ、その他あらゆるところで登録した苗字を変えるこの作業が、皆に祝福されるほどのものなのかと思った。
結婚式など考えてもなかった。
知らない神様の前で愛を誓う、それになんの意味があるかよく分からなかったのだ。
律が光希を愛しているのは、光希だけがわかっていればいい。そこに神も証人もいらない。逆も然り。自分たちはそれでよかった。
親や友人への感謝は、そんな大層な場所じゃなくてもできる。
東の空が白んでいるように見えた。
えっ、と声出して時計を確認する。
現在深夜1時過ぎ。日が昇るわけのない時間だ。
手すりをつかんで前のめりに確認する。その光の出所から、もくもくと黒い煙が見えた。
「火事だ」
律の声に、光希も起きてベランダに飛び出してきた。眼鏡を忘れたせいでよく見えないのだろう。切れ長の目をさらにグッと細くする。
「ああ、本当だ。でも遠いな」
「通報すべきかな」
「あれだけの煙だ。近くに住んでる人が気づいて、もう通報してるよ」
その言葉を裏付けるように、小さく消防車のサイレンが聞こえ始めた。音からして複数台いるようだ。
これだけ距離が離れていれば、どんなに大きな爆発が起きたとしても火の粉が飛んでくることはないだろう。そう思うと体から緊張が抜け、唐突な眠気に襲われる。
煙草の始末をきちんして、目を擦る。
「おいおい。下着をつけてないのか」
Tシャツを捲った光希が呆れたような声を出した。律も視線を落とす。
「全裸のあんたに言われたくない」
「さっきも言ったけど、もっと恥じらってくれよ。ヒヤヒヤする」
「こんなところで脱いでたって、誰にも見られないよ」
不服そうな顔の夫に、首を傾げて悪戯っぽく笑う。
「誰にもね」
意図に気づいた光希は居心地悪そうに視線を逸らした。
それでもペンダコのできた手は既にシャツの中に入り込み、律の腰を柔らかく撫でていた。
サイレンの鳴り響く夜空の元、二人は再度口付ける。
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