思ってもないことは言えないから
“おめでた“
保健だか理科の教科書だかに、妊娠中の女の断面図が載っていた。
何週目でどれほどの大きさがあり、こうやって赤ん坊は育っていくのだと解説された図だ。丸まった胎児が母親の内臓を圧迫して行く過程が並んでいる。
その当時は何も思わなかった。
ふーん、赤ん坊ってそうやって育つのか、何も腹の中で育たなくてもいいのにねえ、くらいは思ったかもしれない。とはいえ、すぐに興味を失った。先生の解説が子供の作り方に向いたせいもある。
授業を終えてからも、友達とそっちばかり取り沙汰して、キモチワルイと盛り上がった。子供ができた後の女の身体など話題にも登らない。
開いたんだ。
そこまで意識を巡らせることができたのは、成人をとっくに過ぎたつい最近のことである。
当たり前のように提示された妊婦の腹の断面図。子宮の構造と、生理の仕組み。内臓を押し上げる子どもと、それをつなぐ臍の緒。
妊婦の体を開いたんだ。
誰かが腹の中にいる子供の様子を、本当に見たんだ。
想像してしまうと、ゾッとするほど怖くなって思わず足を早めた。
お祝いの品が入った紙袋がガサガサとうるさい。年季の入った鉄骨階段から覗く錆色の模様が、血に見えてならなかった。
相手は数年付き合っていた大企業に勤める年上のサラリーマンで、それを機に結婚するらしい。いわゆるデキ婚である(最近では授かり婚ともいうようだが、まあ同じことだ)。電話口の燈子は、覚悟を決めさせてやったわ、と戯けたように言っていた。
「順番が違うんじゃないの?」
お祝いの品を差し出しながらそう言うと、燈子は目を丸くして笑った。現在三ヶ月目だと言ったが、お腹は出ていない。体のラインを強調するようなセーターと、短く切った髪の毛がよく似合っている。
「りっちゃんだけよ、そんなこと言うの。親には手を叩いて喜ばれたもんよ。ああ、ようやく孫ができるって。二十七にもなると順番とかどうでもいいのかもね」
「でも、結婚式ができないでしょ」
燈子の薬指には指輪もなかった。
結婚式は盛大に挙げたいと常々言っていた事を思い出す。
日当たりのいい開放的なチャペルがいいわ。みんなの前で永遠の愛を誓って、退場時に花を撒いてもらうの。もちろん造花じゃなくて生花よ。
披露宴会場には、写真をいっぱい飾って、大好きな音楽を鳴らしたい。お色直しのドレスは絶対に黒がいいな。
友人代表のお手紙は、りっちゃんにお願いするから、今から内容を考えててよね。泣かせてよ?
しかし燈子は首を横に振った。
「出来るわよ。生まれてくる子が歩けるまで育ったら、絶対に式を挙げる。リングガールってやつ?指輪を持ってきてもらう役目の子ね。あれをさせたいの」
「お腹の子、女の子なの?」
綺麗にくびれたお腹に目を移す。燈子は明朗に笑った。
「まだわかんない。リングボーイかも」
愛おしげにその上を撫でる指は、細く頼りない。
燈子の家を後にして、帰路に着く。
どこかの民家から漂う金木犀の香りが鼻の奥にこびりついた。静かな住宅街で、横断歩道の白線だけを踏んで歩く。
誰もいないせいで、世界でたった一人だけのような気がした。
自らの薄情さに気づいたのは、自宅の賃貸アパートの鍵を差し込んだ直後のことだった。
ガチャリ、という音と同時に気づいた。
内心舌打ちする。
やっちまった、とさえ思った。
どうして私はいつもこうなんだ。
燈子も燈子だ。私のあんまりな振る舞いに、文句くらい言ってくれたっていいのに。
ああ、親友よ。
私は君に「おめでとう」を言ってないじゃないか。
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