発露

 ぬるい風がながれた。おれは口を開いた。

「毎日が苦しかった。できることなら消えたかった。でも自分一人で消えることは嫌だったんだ」

 自分でも何を言っているのかわからない――答えになっていない。

「知って欲しかったんだね。空気みたいな自分でも確かに存在していること、苦しくてどうしようもなかったことを、なるべく多くの人に。そして、自分を苦しめた世界に最大限の呪詛を巻き散らかすつもりだったんだ。おれの言葉通り、すべて壊したかったんだろう」

「そうだ。おれは昔から何にもできなかった。いつだって誰からも馬鹿にされてた。そんな自分が嫌だった。自分だけがなんでこんなに苦しまなきゃいけないんだと思ってしまって、もう耐えられなかった。おれはこんなに辛いのに、平然と幸せそうに暮らしている奴らにむかついた。おれの周りにあるもの全部ぶち壊したかった。世界に恐怖をばらまいてやりたかった」

 一気にまくしたてる。思いだけがとめどなく押し寄せ、唇の動きが、言葉が追いつかない。憎悪を全て形にできないのが、それを榮倉に伝えることができないのがもどかしくて、おれは唇を噛んだ。

 いつもそうだった。周りと自分を比べて、孤独な自分が酷く惨めに思えて苦しんだ。孤独とは縁遠いように見える他人を見て強烈な悪意を抱いた。

 そんな感情を持ってしまう自分が醜くて、なおさら自己嫌悪に沈んだ。そんな毎日を続けるのはもうごめんだった。全部が嫌になっていた。他人も、自分も、全部壊してしまいたかった。

「でも何も出来なかった。ここでもおれはおまえ達と同じになれなかった」

 おれはポケットからナイフを引き抜いた。一切血がついていないそれを、だらりと下げた腕の先で榮倉に見えるように振ってみせた。ナイフの先は残酷なまでに銀一色にくすんでいた。

「わかってたんだ、そんなこと。おれは結局、どこまでも度胸無しのクズなんだってことはわかってた。おれだって自分を変えたかった。家族や先生が認めるような存在になりたかった。そのためにもがいてきた。でも無理なんだ。だったら、それが叶わねえんなら、地獄を作りたかった。遠山と同じだ。この世を地獄の世界で塗りつぶしてやりたかった。のうのうと生きてるやつらの目を覚まさせてやりたかったんだ。そう思ってた。それなのに、おれはここでもまた、何もできなかったんだな」

 勝手に言葉が口をつく。くだらないことをべらべらと喋ることを止められない。

「地獄なら作らなくてもすでにあるじゃないか。この世だよ。この世が地獄なんだよ。おまえを取り巻く全てだよ」

「それは――」

「生きていて辛かったんだろう? 地獄は隆司が今言ったとおりのことだよ。それにも、本当は気づいていたんじゃないの?」

 おれを取り巻く全てが地獄――確かにそうだった。痛みを抱えたまま、ずっと暮らしていくことが怖かった。未来を描けないことに焦り、苛立った。

 自分以外の人間――とりわけおれ自信の苦痛に気づかない存在に対しては憎悪しか抱けなかった。憎悪――本当にそれだけなのか。いくつもの情報が絡まりあった頭の奥で、ボウリングをしている長崎たちが浮かぶ。遅れて京子の顔が浮かぶ。

 この世を地獄に変えたかった――今のおれの、切なる願いだった。だが、榮倉の言う通りこの世はおれがどうこうするまでもなく、すでに地獄だ。虐待が日常だった長崎。親に高校にすら通わせて貰えない遠山。彼らが身を置いていたのは紛れもない地獄のはずだった。

 それに比べて、家族がいて、京子に好かれていて――おれは恵まれていたはずだった。それなのに、おれは自分を取り巻く苦痛に目が眩んだ。それにしか目を向けず、他のことは一切閉め出す道を選んだ。人殺しを手伝った。お父さんやお母さん、京子はおれのしでかしたことを知ったらどう思うだろう。

 どう思うだろう――長崎達に対しても同じだ。

 奴らと過ごしながら、結局おれは彼らにただ同情するだけで、何も考えなかった。

 それどころかおれより劣悪な彼らの境遇を疎ましく思い、自分の不幸だけを祭り上げるため、彼らのことは締め出した。無意識のうちに彼らの地獄を消していた。彼らの人生ではなく自分の後ろめたさに耳を傾けた。

 どこまでも共感能力を欠いているおれ――もしかしたら、橋本を初めとする人間達は、おれの欠陥に気づいていたのか。だからおれの元を去っていくのか。どうしたら皆はおれに振り向いてくれたのか。

 もう何も考えたくない。

「何がいいたい」

「隆司だって本当は知ってたんだよ。地獄は既に世界そのものだって。それに気づかないふりをしてたのは、自分一人で苦しむのが嫌だっただけなんだ」

 榮倉の唇が喋る度に歪み、皺を刻んでいる。その顔は笑みを浮かべているようにも見えるし、苦痛に満ちた顔のようにも思えた。

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