逃亡

 唐突にサイレン音が流れてきた。霧散していた恐怖が舞い戻った。人を殺して捕まる覚悟でここに来たはずだった。

 覚悟――どこかに消え失せていた。

 おれは走り出した。空気中に充満する血の匂いに目が眩みそうになる。太ももが痛んだが、入り口を目指して懸命に駆けた。

 受付のすぐ横に人だかりが出来ている。誰もが私服――警察官では無く野次馬。入り口のボードの脇で沢村が気を失って倒れている。

「くそったれ、この世全部クソだ。最悪なんだ。殺してやる、死んでしまえ、くたばれ‼」

 荒く鋭利な声――がたいの良い血塗れの男に遠山が押さえつけられている。身体の自由を失った遠山はただ喚き散らし続けている。

「幸せばかりの世界なんか無いってなんでわかんねえんだ!」

 男が遠山を怒鳴りつける。

「ふざけんなよ。何でおれだけこんな苦しまなきゃなんねえんだよ。死ねよ。全員おれと同じ思いをしてからいえよ」

 遠山の声が感情を帯びる。遠山は泣いていた。泣き出していた。身体中に張り付いた血液に涙が混じって濁った。遠山はおれに気づく様子も無かった。自分の憎悪しか意識に入れていないものの目だった。

「でないと生きていけねえよ。苦しすぎんだよおれの人生。せめて」

 遠山の言葉は既に言葉では無くなっていた。行き場の無い感情を最大限にぶつけるただの騒音だった。

 喚き続ける遠山を尻目に、おれは誰にも見つかることなく、美術館を出た。サイレンと入れ違いになっていた。

「何か高校生が館内で人刺して、死人が出てるらしいよ」

「とんでもないガキですね。今まで何をやってきたんだか」

「いや本当に、日本の終わりを感じるよ」

 美術館のすぐ横にいた男性が身振りを交えて話している。

 彼らは何も知らない。あいつらは親に愛されることすら叶わなかった。だからこんなことになってしまった。絶望の果てに憎悪の塊となって人間を血塗れにした。

 美術館にいた人は会ったこともない人間に殺された。

 今まで何をやってきた人なのか。誰も今日死ぬなんて想像もしていなかったはずだ。何のために生まれてきたのか。生まれてきた意味など本当にあったのか。

 おれはどうか。自分の人生――繕うことだけを気にした結果、誰にも好かれない惨めな記憶だけしか残らなかった。

 おれの家族は何でおれを産んだのか。おれに何を期待したのか。おれはどうすればよかったのか。

 二人の横を通り過ぎ、人混みが出来つつある路地を駆ける。つんのめりそうになりながらも走った。誰からも気にかけられない自分の存在感のなさに、今だけは感謝した。

 走りながら自分の人生に思いを馳せる――こんなことをするために生まれたわけじゃないことだけはわかっていた。

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