決別

 高松美術館に下見をしに行った。京子の絵はまだ飾られていなかった。絵を飾るボードには一部、布がかけられていた。

 今晩、準備をするとき設置するのだろう。市長が来るまでには、展示物を万全の状態にしておくはずだ。明日完璧な状態で絵は展示される。それをおれは、壊す。

 僅かな落胆を胸にしまった。美術館の最寄りの駅から電車で隣町に行った。最寄りの駅――学校の帰りに寄り道したとき、何回か見た場所。おれは電車に乗ったことなんて無かった。一人では何もできないし、電車に乗ってどこかに行けるような友達もいない。

 おれは十数年間生きてきて何も知らなかった。人生経験など何もわからないまま、明日人を殺す。

 イメージするだけで頭痛がした――おれは思考を止めて、集団に身を委ねた。その方がずっと楽な気がした。

 全員でカラオケボックスに移動した。おれにとっても初めてのカラオケだ。誰もが有名な曲を覚えている部分だけ歌ってみる。一曲全てをきちんと歌えるやつはいない。おれは彼らのことがいたたまれなくて、一曲も歌わなかった。おれは音痴だったが、それでも彼らと違ってフルで歌うことは容易かった。

 液晶に映る歌詞を目で追うたびに、いかに彼らが世間から断絶されてきたのかにおれは思いを馳せた。

 榮倉がリュックからビニール袋を取り出し、テーブルの上でシートを広げる。ビニール袋の中身を取り出し、シートの上でばらまく。ナイフ、スタンガン、金属バット――人を殺すための道具が、所狭しと並べられている。皆が矢継ぎ早に凶器をいじる。

「すげえ」

「このスタンガン、ごつすぎだろ」

 新庄が汗まみれの顔をスタンガンに近づけて、歪に笑う。

「長時間当てると、皮膚の薄いところなら人を殺せるレベルのやつだからね。頸元とか。電源の入れ方は、あとで教えるから」

「こんなんどこで買ったんだよ?」

「内緒」

 もはや誰も何も歌わない。ただ、世の中に対する復讐だけに、思惟を巡らせている。

 カラオケボックスで全員に残りのナイフとスタンガン、金属バットが配られた。

 金属バットを持ったままでは多分館内に入れないから、金属バットを持つのは二人だけね――榮倉は言った。金属バットはいらないと、おれは榮倉に申し出た。重すぎて使えないと口にした。本当は、バットは持ち帰ると大きすぎてばれるからだ。沢村と中島もバットはいらないとおれに続いた。適当なところで別れた。彼らはまとまってどこかで寝過ごすらしく、おれは一人で自宅に帰った。

「遅かったね」

 母が心配げな表情と声色で出迎えてくれた。学校で自習していたとだけ答えた。晩御飯を食べ、いつものように自分の部屋に一人、佇んだ。物思いに耽っているだけであっという間に深夜になった。

 布団の中に潜り込んで考える。人を殺すおれ。おれじゃなくなるおれ。上手くイメージ出来なかった。

 鞄の中からナイフを取り出す。重たくて、鋭利な銀色の塊。頭の中で浮かべる。ナイフを持つ。榮倉の首を刎ねて殺す。考えれば考えるほど容易いことのように思える。

 榮倉を殺せるのかもしれない。奇妙な感覚だった。顔も知らない人間を殺すんだから、榮倉をついでに殺してもどうってことない。

 京子の絵も、この世も、榮倉も、全部ぶち壊してやる――自分の衝動に身を委ねることによって生まれる熱に酔いしれながら、おれは眠りに落ちていった。



 美術館テロ当日。

 鞄の荷物を意味もなく出し入れする。必要なものなど何もない。ただ人を切り刻むためだけに、ナイフだけあればそれでいい。それなのに、鞄の中に筆記用具とノート、財布を詰めた。いつもと同じように。いつも出掛けるのと同じように、おれは人を殺す。

「朝ご飯は良いの?」

 母がキッチン越しに声をかけてくる。おれは頷くだけで答えずに、玄関のドアの前に立つ。不意に心細くなった。

「岡本さん、今日来るんだよね、美術館に。京子の絵も見てもらえるかな」

 声が背中を追いかけてくる。おれは答えない。答えることはない。答えられない。出来ることなら、振り向きたかった。本当は何処へも行きたくなかった。鞄の中の冷たいナイフがそれを許さなかった。おれは人間を辞めるんだ。

 それの何が不満なんだ。辛い思いばかりさせるこの世界に一体、何の未練があるっていうんだ。それでも――怖かった。

 相反する自分が頭の中で綱を引きあう。脳髄が軋むように痛み、眩暈がする。

 家族は数時間後に知ることになる。おれが殺人をすることを。おれが妹の絵が飾られている場を汚すことを。おれが血も涙もないひとでなしであることを。人間と決別したことを。

「ダイオキシン受かってるといいね。お母さんは信じてるからね」

 落ちてるんだ――頭の奥で幼い顔をしたおれが叫んでいる。母の柔らかい言葉も、今日に限っては鋭く刺さった。

「いってきます」

 頑なな声を出した。指先が冷たくて、ドアノブを握るときに戸惑った。

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