自棄
虚ろなおれの視界に広がる、見慣れたラウンドワンのボウリングレーン――見飽きた奴らの下手くそなプレイ。誰かがピンを倒す度に馬鹿騒ぎが起こる。ここ最近はおれもそれに混じっていたが、今のおれは一歩引いてソファに座ることしか出来なかった。
皆が一心に転がす球を今日は目に入れられなかった。頭の中で渦巻く声にいざなわれるように気分がますます沈んでいく。日曜日の自己採点のことを思う。ダイオキシン検定。落ちた。頭の中に浮かぶ言葉を反芻する。どうしようもない重い感情が影を落とす。
一週間はずっと抜け殻のような状態だった。孤独すら忘れるほどに、何も考えられなかった。
三年間やってきたのに合格できなかった。それもあと一問で落ちた。あと一問会っていれば――とめどない思いはどうしようもない。どうしようも無いおれでも、高校の先生はおれに期待して推薦してくれた。おれはそれを裏切った。何処までもおれは能なしだった。
どうして自分を信じ切れなかった?――おれがおれだからだ。おれはいつも失敗ばかりする自分が嫌いだった。そんな自分は見たくなかった。逃避してきた。だから、今回も失敗した。
「ゲーム終わったんだけど、追加する? どうするの、隆司?」
榮倉がおれの顔を覗き込み、破顔する。
「おれもやるよ」
レーンにたち、軽い球を選び、ねじ切るように思い切り投げつける。勢い余ってガーターレーンに突っ込んでいく。誰も何も気にしない。後頭部が痺れた。次は茶色い玉――一番重い十五ポンドをレーンに擦り付けるようにして転がす。ピンに触れるあとわずかというところでガーターレーンに落っこちる。立ち上る疼痛のような眩暈に歯ぎしりする。
順番が一周した。再びおれの番が来る。同じようにおれはボールを思い切り投げつけた。今度はストライク。背後から皆が騒ぎ立てる。疼痛、眩暈は変わらない。おれの精神状態は何も変わらない。それどころか、今日に限っては彼らの歓声すら気に障った。
腹の中で形容のしようが無い乱雑な感情が渦巻く。全ては立たれたのだ。自慢げに合格を家族に見せびらかすおれ。先生の期待に応え、よくやったと褒められるおれ。全ては虚像だった。おれの狭い頭の中で勝手に紡がれた偽りだった。そんな自分がいるとおれは信じていた。どこにも自分が求める自分も世界も存在していないのだ。全身の神経が逆立ち、胃液が重力に逆らって逆流しているかのような吐き気が絶えず、胃が重たかった。
「大丈夫か?」
榮倉がソファで腹を押さえているおれに気づき、歩み寄ってくる。
「別に。平気だから」
榮倉は踵を返し、おれと向かい側にあるソファに座る。
「場所何処だっけ?」
「駅前の美術館。高松美術館ってとこだよ。知ってる?」
榮倉の言葉に誰もがあっけにとられている中で、おれの脳髄を閃光が駆け抜けた。思考が爆裂する。高松美術館――京子の絵が展示される場所。思考が止まる。京子の絵――あまりの劣等感に、おれは書きかけのあの絵を一度も見ることができなかった。だから、おれは京子がどんなテーマであの絵を描き上げたのかすら知らない。堪えきれないほど感情が高ぶり、全身に鋭い痛みが走る。
「なんでそこなんだ?」
「岡本市長が明後日美術館に来るんだよ。テロ起こすんだったら、市長殺した方が目立つと思ってさ」
岡本――頭に閃光が走り、微かに痺れる。聞き覚えのある名前。
岡本市長が来るんだって――家族の会話の中で母がそう言っていた。そうだった――脳髄が痺れ、鼓動が早まっていく。
「隆司もやるんだろ?」
「やる」
手元にある空き缶を握り、プルタブを開け、炭酸飲料を一息に呷った。アルコールなんか無くても、己の感情の激しさで酔えた。
「でも、美術館の近くなんて監視カメラばかりだじゃね。よく知らないが、今時カメラは何処にでもあるんじゃねえか。いくら変装したって、すぐばれるさ」
「関係ない」
「どういうこと」
「逃げおおせるつもりなんかない」
「どういうこと?」
おれは同じ言葉を繰り返した。
「テロだからな。人を殺しまくれればそれでいい。そのあとのことは考えてない」
中島昇が呟いた。
未来を持てず、何処にもたどり着けない彼らの漂流者のような生き方。わかっているつもりだった。それでも、しばらくの間おれは言葉を失い見つけられなかった。
「怖じ気づいた?」
榮倉が首を傾け、おれの顔を覗き込んでくる。怒りがこみ上げる。耐えられない。榮倉に失望されることに耐えられない。無意識に身体が強張り、全身に力が入った。関節が軋んだ。
「なわけねえだろ」
榮倉に胸の内を見透かされないように強がったせいで、吐き捨てるような語調になってしまった。これからの自分のことを考える。大学受験――国公立に受かる見込みは無い。頼みの資格試験も落ちた。
もうどうなってもいいじゃないか――投げやりな感情がおれの思考を占領していた。
「最初から決めてたのか? ボウリングの金が尽きる時と市長が美術館に来るタイミングを」
「そんなわけないじゃん。無理だよ、そんなこと――超能力者でもないのに」
おれの安直な疑問はばっさりと切り捨てられた。
「おれたちは社会に殺されかかっているんだ――だから、市長を殺してそれを知らしめてやるんだ」
康司が呟いた。目線はおれの方を向いていない。おれだけじゃない。康司は誰のことも見ていない。康司だけじゃない。ここにいる誰もが自分の絶望しか見ていない。
榮倉は何も言わず笑っている。
「おれもやるさ。こんなクソみたいな世の中なんだから」
出した声が震えていた。
「美術館つったら、おれの妹の絵あったわ。飾られてるんだってよ」
震えをごまかすために、脈絡のない話をおれは振った。新しい炭酸ジュースに手をかけたが、ペットボトルの蓋を取るのに手間取った。
「妹の絵あるの? じゃあ、血で汚れたりしたらまずくね?」
榮倉が身を乗り出し、おれの方に向き直る。
「全然。むしろその方がいい。市長のついでに、絵もぶっ壊してめちゃくちゃにしてやる」
考え無しに放った言葉に、後から感情が乗る。全身が熱を帯びているのを感じる。
「マジで?」
「ああ。あいつ、むかつくんだよ。絵もたいしたことねえし、コンクールに入賞したとかいうから、目障りで、うざってえんだよ。むしろ、壊してえから都合良かったよ」
妹の絵を愚弄して、悪ぶることで、おれは自分の奥底にある不安と自分を切り離そうと努めた。中身のない言葉だけが感情を高ぶらせていく。それがまやかしの強さであろうが、おれはそれに縋るしかなかった。
テロを覚悟する勇気なんか持ち合わせていない。人を殺したいわけじゃない。それでも――自分の居場所を手放せない。乱雑な感情が浮かんでは消える中、おれは今年の一月――修学旅行のときに橋本に連絡したときのことを思い出していた。
修学旅行で秋葉原で町歩きをしている際に、街角で高そうな腕時計がセール中と銘打たれていた。少し覗いていく程度の関心しか無かったが、店長のおじさんの「あと十分で終了だよ」という大声と千円という金額につられて時計を買った。おれたちが一時間後帰りに通ったときに、時計屋は同じようにセールと銘打っていた。
セール中とか言われて騙されたわ――こんな趣旨のLINEを橋本に送った。軽い愚痴のつもりだった。それはやられたなー――些細な冗談として、橋本に共感して貰って笑って貰うつもりだった。
橋本は冷たくおれをあしらった。それは自分が悪いんだろ――LINEの文面もおれを避難するだけの簡素なものだった。おれの期待した反応とはかけ離れていた。
ふと物思いに耽ると、浮かんでくるのは自分にまつわる汚点ばかり。いつもいつももう変えられない、どうしようもない過去のことを浮かべて勝手に気分が沈んでゆく。そんな人生は疲れるだけだった。
考えてみれば、あの時から橋本の態度は変わっていた気がする。くだらないことでLINEをしたおれが悪かったのか。おれはそこまでつまらなかったのか。ありのままのおれを受け入れてくれる人なんてどこにもいなかった。
おれが人を殺したと知ったら、橋本は同じふうに声かけをすることは出来ないだろう。怖れ、おののき、おれに冷淡な態度を取る余裕も無いはずだ。勿論、人を殺したあとのおれが橋本と会うことはない。ただの馬鹿げた妄想だ。それでも、空想を止められなかった。おれに対して驚愕する橋本が、見てみたくなったのだ。
ざまあみろ――誰に? 橋本に? 同級生に? 世間に?
どこに対して向けた言葉なのかすらわからない。おれの頭の中で、何かが切れかかっていた。長崎達に対するジレンマ。榮倉に対する劣等感。誰ともまともに関われない学校。家族にすら見栄を張る自分――絡まり合った感情に、脳が締め付けられるかのように痛んだ。
「でもさ、本当に良いのかな。おれみたいな何も出来ない人間が人殺しなんて――いや、そういう意味じゃないんだ。もちろん、おれも参加する。逃げるつもりはない」
「は? おまえ、急にどした? 今更びびるとかは無しだぜ」康司がペットボトルをゴミ箱を見ずに投げ捨てた。
「そういう意味じゃなくて、おれは、ここにいる皆のような事情は抱えていない。それなのに、世の中が嫌すぎて、逃げたくなってここに来た、クズだ。そんなおれが、皆と一緒にこれに混じっても良いのかなって」
「別にいいじゃん。だってさ、おまえが何も出来ないって、そうさせてるのはこの世界なんだから。だから、それが嫌なら、そんな世界に従わなくていいよね」
確かにそうだ――痛みばかり与えて、満足のいくものは何一つ手に入らない。何も出来ない自分が嫌いで、憎らしくて、悔しくて。そんな世界に甘んじる必要なんて無い。
榮倉の言葉――今のおれには救いだった。それがどれほど凶悪なものであっても、おれを肯定してくれるのはその言葉しかなかった。それでも――おれの劣等感を刺激する榮倉を許せなかった。殺したかった。焼き千切れそうな熱に身を委ねた。意識が二つに分裂しそうだった。
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