嫉妬2

 ラウンドワンに通い詰めるようになって、おれは多少彼らと話せるようになった。前に榮倉に紹介されなかった二人が中島と新庄という名字であることを知った。中島昇はクラスでいじめに遭いそのまま不登校になり、SNSで榮倉と知り合いここに通うようになったらしい。新庄は父親から性的虐待を受けて家から飛び出してきたとのこと。

 大なり小なり彼らは似た事情を抱えていた。彼らの様子を見て何となくおれは疎外感を抱き、そんなことを考える自分から逃げるようにボウリングに没頭した。

 榮倉のLINEアカウントを開く。今日もやるよ――メッセージは三日前の榮倉の誘いで止まっている。

 いつボウリングやる?――今までは榮倉の誘いに乗るだけだったのに、おれはいつの間にか自分から返信するようになっていた。


 今日も学校から帰り、榮倉に会う。連れだってボウリングに行く。ラウンドワンではいつものメンバーが同じ動作を繰り返している。へたくそなボウリングを何時間もやって、帰る。それが日常の一部となっていた。

そんな日々を送って一ヶ月が経った。何度もボウリングに行くにつれ、おれは彼らの名前を憶えていった。髪を金に染めているのが遠山。身長が高くて細長いのが長崎。肌の白い、眼鏡をかけているのが沢村。それ以外のことはほとんど知らなかった。

 十五ポンドのボールがガーターレーンへと突っ込んでいく。よくあること。それを馬鹿にするものは誰もいない。

「何かさあ、今日調子悪ぃわぁ」

 堕落しきった奴ら――その日その日を暇を潰すことだけに費やす奴ら。孤独でさえ無ければ、虐げられなければそれでよいと、何も考えず飛びつく奴ら。

こいつらにはボウリングを上達しようという意志が全くない。ただ無償で提供される場がボウリングだから、そこに甘んじているだけ。だから、上達する必要も無いのだ。彼らには未来も、自分のその先もない――考えたくない。

彼らを見ていると無性に安らぎを覚えた。それでも、ふとした時にその弛んだ世界に苛立ちを覚えた。この場に一人だけそぐわない男――榮倉遼一。皆、こいつの飼い犬だ。榮倉の与えるものに飛びつき、榮倉に言われるがままに時間を食い荒らしている。何でだ――虚空に問いかける。何にも無いからだ。自分が何をしたいのかすらも分からないからだ。選ぶ権利すらも剥奪されているからだ。

 ベンチに座ったいつものメンバーは、自分で持ってきた飲み物を、誰に断ることもなく飲み、おやつを音を立ててかみ砕く。おれはテーブルにレシートを置き、裏返して絵を書く。

「絵、書いてんの?」

 おれは手で紙を覆った。後ろで榮倉が笑みを浮かべながら立っていた。おれは何も言えず、顔をわずかに歪めて頷いた。

「おれも絵を描くんだよ」

 榮倉遼一は言い、長方形の物体を鞄からを取り出した。おそらくペンタブレットかiPad――おれも絵を書くから知っている。そんなことを考えながら、ぼんやりと視線を走らせた。

目を疑った。はっきりとした絵がそこにあった。デジタルで書かれた、女の人が双眼鏡を覗いている絵。きちんと色分けがされ、線の濃淡が明白だった。上手いのだ。イラストレーターの絵だと言われても信じるような出来だった。おれの絵とは比べ物にならない。

 榮倉に今まで抱いていた親しみが瞬時にどす黒く裏返る。目の眩むような怒りに、全身が痺れていく。親近感――嫉妬――殺意。

 胸くそが悪くなり、神経は落ちていく。恵まれない奴ら。センスを与えられなかった奴ら。おれと同じだと思っていた榮倉。ここにいれば劣等感を忘れられ、心地よかった。ここはそんな場所じゃ無いのか。それなのに何でこんなところにお前がいるんだ――

 言葉は形にならず、ただ呻きとなって口をつく。

 怪訝な顔をする榮倉の端正な顔立ちが、涙で滲む。榮倉に対する殺意が燻った――余りの巨大な感情に意識を失いそうだった。


 自分の部屋のベッドの上に寝転がる。何もしたくなくて、ベッドの上でただ仰向けになっていた。

 榮倉に見せてもらった絵のことが頭を離れない――その光景はただただ苦痛に満ちていた。思い返す度に全身の関節に痛みが走る。

 布団に背中を沈ませながら、天井のライトをぼんやりと見つめる。

靄がかかった視界は天井の方を向いているのに、何も捉えられない。唐突にまた、昔のことを思い起こす。給食当番のペアがいつまでも教室で駄弁っていて、給食場に行こうとしない。話に割り込んで声をかけることができず、手を痺れさせながら重いおかずを腰を入れて抱え、一人で教室へ運ぶおれ。ただでさえ華奢なおれには負担が大きい上に、容器は中身によって熱されており、掌がひりついた。熱くなった鉄の取っ手に手全体を密着させていたため、痛みが尋常ではなかった。力を振り絞って四階まで階段を上がり、教室の台におかずを置く。運搬を終え荒い息を吐いても、誰にも気づかれなかった。何事もなく配膳がされ、給食がいつものように始まる。ペアでさえ駄弁ったままおれの方を見ようともしない。気づかない。

 昼休みに皆がドッジボールに行く中、おれは洗面台でひたすら手を冷やしていた。冷たさと痛みだけが鋭敏だった。

 高校一年生。危険物取扱者試験の自習をするために放課後クラスの五人が居残りをしていた。四人がカラオケの約束をするのを横で見ているおれ。

 誰かと同じ空間にいて、誰とも同じじゃないおれ。小学校のときからずっとそう。

 頭の中の情景は今日のボウリングに切り替わる。回想には脈絡がない。

「遠山スペア行けるって」

 長崎が遠山を煽る。

「まじやって。真ん中にちょうどあるから」

 おれも長崎に声を重ねる。

 遠山がボールを転がす。

 ボウリングで皆と戯れるおれ。ボウリング仲間を囃し立て、励まし、一喜一憂する。まるで男子高校生が送る、普通の日常のような風景だった。誰も彼もが普通じゃないというのに。普通じゃない個々が、集団を作り、普通なように振る舞っている。

 ボウリングに興じるおれ――今までは考えられないことだった。人並みに近づいたはずのおれ。それでも。

 どれだけもがいても、おれは一人だ。唐突に感情が爆発した。敷き布団を強く握りしめた。たまらなく寂しかった。誰にも言いたくなかった。一人でいたいのに、誰とも繋がっていないことが辛くて、しんどくて生きて行けそうにない。心細かった。

 皆がボウリングに湧き上がっている中、おれはボウリングルームの隅で榮倉と絵の話をしていた。榮倉はおれにiPadで他の絵も見せてくれた。榮倉の絵は整っていた。写実的な部分とイラストの部分を上手く合わせて書かれていた。

榮倉はデジタルイラストを熟知しており、線画と塗りにおけるレイヤーの使い分けなど、おれの知らないことをたくさん教えてくれた。どの絵も町中にポスターとして貼ってあったとしても違和感の無い出来だった。榮倉に対する嫉妬はますます大きくなり、息苦くなった――おくびにも出さないように振る舞った。話している途中に榮倉は自販機からジュースを買うと僅かな時間席を外した。

 榮倉がいないうちに、おれはソファの上に置いてある榮倉の鞄を、テーブルの下で周りに見えないようにまさぐった。

榮倉の要素についておれにはもう一つ確かめたいことがあった。絵が上手い――それはあくまで榮倉を形成する要素の一部分でしかない。おれが知らないだけで、榮倉には、まだ数多くおれより優れている部分があるんじゃないか――悍ましい疑問。思い立つと、榮倉について無知でいることに対して途端に落ち着かなくなった。榮倉の美点を探すことをやめられなかった。もう見たくない――これ以上榮倉に対するコンプレックスが増えれば、おれ自身それに耐えられそうに無いことはわかっていた。それでも知らずにはいられなかった。小学校時代、おれと殆ど変わらない立ち位置、性格だった榮倉――それがどのように変わったのか、どうしても知りたかった。おれは強迫観念の奴隷だった。

「どした、隆司? ジュースでも飲む? そこの自販機で買ったから」

 背後から声がした。榮倉がおれに缶を翳す。不意を突かれ、強ばる背中――おれは笑みを貼り付け、榮倉の鞄を自分の腰のあたりに戻した。榮倉に対するどす黒い心が増殖していくのが分かる。気味の悪い感情は毒のように全身に回り、おれを不快に酔わせる。

ここにいれば、自分が恵まれていること、彼らに何も出来ないことに対する後ろめたさこそあれ、少なくとも今までのおれを覆い尽くしていた劣等感とは無縁でいられるはずだった。榮倉の絵の上手さ――全てはぶち壊された。感情が高ぶり、情緒がばらばらになりそうだった。

 しばらくして榮倉がトイレに行って、また席を外した。おれは再び鞄をまさぐった。おれには確かめたいことがあった。

初めて帰り道で榮倉と会った日。榮倉はあの時、制服だった。と言うことは、学校帰りにボウリング場に寄ったことになる。ボウリング場はおれの高校からさほど離れてはいない。おれの高校のすぐ近くには高松高校もある。高松高校――県で一番偏差値が高い。ラウンドワンは高松高校からもさほど離れてはいないことになる。今まで考えないようにしていたおれの疑問――榮倉は高松高校の生徒なのではないか? 疑問がいったん膨らむと落ち着かなかった。

 知らないほうがいいのに――声がした。無視した。気になって落ち着かない――強迫観念に身を委ねた。

 鞄の中にある小物を手当たり次第物色した。メモ帳――捲った。生徒手帳は見当たらない。グミ菓子――これも違う。鞘に収まった、赤い柄の物体――おそらくナイフ。

 何でこんなものが?

 新しい疑問を打ち消した。今は榮倉の高校を探ることが第一だった。

 ボウリングをしている連中の誰の目にもとまらぬよう、自分の存在を押し隠しながら榮倉の鞄ををまさぐり続けた。スマートフォン、ハンカチ、財布――

 財布に、緑色の冊子が挟まれていた。生徒手帳だった。開いた。

 高松高校 三年 榮倉遼一――文字が目に入った瞬間襲ってきたのは眩暈だった。予感は的中した。知らなければよかったのに――

 荒れ狂う嫉妬に正気を失いそうだった。自尊心が霧散し、劣等感が爆発しそうだった。誰と比べても劣っている自分が嫌で、それを感じさせる学校が嫌で、逃げ出したくて、逃避したくてここに来たのに――辿り着いた咲きにはおれよりあらゆる面で優れている遼一がそこにいた。もう見たくない。嫉妬したくない。誰かを憎みたくない。自分の醜い部分を増やしたくない――

 自意識に対する気持ちの悪さに押し潰されそうだった。


 喉が不快にざらつき、キッチンに降りてうがいをした。自分の部屋に戻り布団に潜り込んでも今日のことに対する強烈な感情は全く薄まらなかった。

結局眠ることも出来ず、仕方なく机に向かい、自分の部屋でまたダイオキシンの過去問を解き続ける。

集中力が切れるとまた今日のことが浮かび上がってくる。生徒手帳の写真に写っている榮倉が笑っている――屈折した感情がもたらす幻覚。榮倉を殺したかった。そんなことを考える自分が怖かった。おれを誘ってくれた。遊びを教えてくれた。まともな頭で考えれば、おれが榮倉を殺す理由は何一つ無い。それでも――榮倉に対する負の感情の増幅が止まらない。

 榮倉を殺したい――不快感がもたらす頭痛から逃れるように試験勉強に没頭する。それはおれの目標であり、逃避でもあった。

 不幸の塊のような連中。榮倉のことを思い返す。その中であいつだけは異質だった。

「欲しいのは同情じゃ無くて金なんだよ」

 初めてボウリングをしたときの榮倉の言葉――疼痛がした。彼らと一緒に過ごし、彼らの不幸を知りながら、同情するだけで何一つ与えられない自分が後ろめたかった。自分の底の浅さを見透かされているようで気分が悪かった。

親から暴力を振るわれたり、教育費を出してくれないのが当たり前を親を持つ彼ら。彼らといると、自分の不幸を否定されているように思えて苦しかった。彼らのことを知らなければ、おれは自分の不幸が絶対的なものだと盲信出来たのに。自己憐憫にだけ浸ることが出来たのに。

 勿論、自己憐憫に浸る毎日は苦しかった。嫌でしょうがなかった。自己憐憫に耽れなくなった今、あるのは榮倉に対する殺意とボウリングのメンバーに対する後ろめたさだけ。それがぴりぴりとした巨大な感情となってどす黒くおれの奥底に沈殿している。空虚な毎日はそのままで、自己憐憫という逃げ道すら完全に断たれてしまった。

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