感情
「でも――奨学金借りれば」
「自分で奨学金借りても、親が拒否したら全部終わるんだよ。おれはそれで入試の出願取り消されたし、奨学金も止められた。だから大学行けなかったんだ。おれの同級生はみんな大学行って、なんか楽しそうにして――クソ過ぎるだろ⁉」
細い顔をした、短髪の青年が喚いた。大人しい喋り出しからのヒートアップに、おれは戸惑った。青年の語調の変化は余りにも唐突で、おれに不安定さから来る恐れを抱かせた。
「長崎も沢村と同じなんだよ」
「そうなのか」
それしか言えなかった。
「でも、親は金持ってるんだろ」
「だからだよ。親が金持ってるから、奨学金を出す必要が無い――そう判断されるんだ。実際は受験費用も出してくれないのにね。それだけ親権の力が強いんだよ、日本は」
「担任に相談したら」
「家庭の事情に口出せないってさ」
いつの間にか空気がとてつもなく倦んでいることに気がついた。違う。最初から彼らには覇気が無かった。この倦みは最初からだ。おれがそれを気にかけなかっただけなのだ。
話に混じっていない他の三人は順番を無視してボウリングに勤しんでいた。おれたちの話し声は耳に入っているだろうに、何の反応もしない。彼らは遠山達の事情を既に知っているようだった。
「そんなこと考えたこともなかったんだろ」
背後からの呟きがおれを刺した。振り返る。自分の鞄をいじっている沢村――殺意に似た熱が身体の奥底で膨らんでいく。
おれだって――際限のない怒りが全身に浸透する。落ち着け――自分に言い聞かせる。こいつは環境が悪いんだ。かわいそうじゃないか。それに、こいつがいくら辛い思いをしていたとして、おれに何の関係があるっていうんだ?
「仕方ねえよ。虐待なんかおれらが死なないと全然ニュースとかにならんだろうし」
虐待なんか――長崎の物言いが心に突き刺さる。
「きみらほどじゃないけど、まともに学校行けてるけど、そんなおれでさえクソだ。大人は綺麗事しか言わんし、当たり前のことすらできないおれはクラスにだって馴染めんし。しんどいんだよ。生きづれえんだよ。こんなこと誰かに話してもどうせ甘えだって切り捨てられるだろうよ。誰もおれのことなんかわかっちゃいねえんだ」
誰に聞かれた訳でもないのに勝手に喋り出す――そんな自分におれ自身戸惑っていた。教室でも、自宅でも、おれは己の胸の内を頑なに閉ざしてきた――普段のおれからしたら、初対面の相手にこんなことを打ち明けることはあり得なかった。
「おれも学校は友達なんかいねえし。学校に居づらかったり、いじめとかで不登校になったやつだっているんだろ。じゃあ学校がクソなことぐらい、わかるだろ」
さっきに比べて明らかに語調が強くなっているのが自分でも分かる。熱を持つ感情は破裂寸前になっている。おれは不満と怒りを吐露しながら、自分の言葉が帯びる熱に酔っている。
何でそんなことを言う、言える?――熱の中に微かな疑問が浮かぶ。自分のことなんて喋る必要も無いのに。おれは口にしながら驚いていた。彼らに対して明らかにむきになっているおれがいた。友達がいない――おれにとってそれは一番知られるのを怖れていることだった。他人はおろか、家族にも打ち明けたことは無い――打ち明けられるはずが無い。それを口にせざるを得ないほどの怒りを何でこいつらに覚える必要があるんだ。何がそんなに気にくわないんだ。錯綜する感情――苛立ちが増す。
しばらく会話が続くと、またおれたちは無言になった。喋るのに飽きたのか、またボウリングが再開される。
「こいつらを助けてくれる大人とかいないの」
おれは後ろで座っている榮倉に耳打ちする。
「いるわけないだろ」
「それはそうだよな。でも、ネットとかだと最近は、家庭環境が悪いとかについては、格差問題とかで同情の声が増えてきたような気がするんだけど」
頭の中でインターネットの画面が大写しになる。おれのTwitterのタイムラインには毒親、発達障害、孤独感といったネガティブな言葉ばかりが並んでいた。おれ自身が五年ぐらい前は、自己責任が声高に叫ばれていたような気がするが、ここ数ヶ月は弱々しくなっていた。おれは暇さえあれば空っぽな時間をネットサーフィンで埋めていた。他人の不幸を見つけ、安心したいと思っていた。
「そうだよ。でも結局それは声だけなんだよね。哀れむだけで、助けてくれる人は誰もいない。欲しいのは同情じゃ無くて金なんだよ。だから、ここにいる皆にとっては、金を出しているおれが一番の助けなんだよね」
榮倉は唇の端を歪めて笑った。
再び無言が訪れた。おれたちはまた、ボウリングに戻った。ボールを投げて、ピンを倒す――恐ろしいほどの単調な動作。しばらくそれを続けていた。褐色の肌の少年がボールをタオルで拭いている。
おれはソファに座りながら自分の怒りについて考えていた。なぜ痛ましく、同情されるべきなはずの彼らに怒りを覚える必要があるのか――
おれは後ろめたいんだ。おれには家族がいて、とりあえず円満な暮らしが出来る。彼らと比べたらずっと恵まれた生活。それなのに、おれの頭を占めているのは不満と苦痛だった。だから、家族すら味方してくれない彼らの不幸と自分を比べてしまうのだ。こいつらとくらべるとおれなんか全然幸せじゃないか――そう思ってしまうのが苛立たしく、もどかしい。
自分の番が来た。七回目の投球。ボウリングをやるのが初めてだったおれは、最初の三回はガーターだったが、それ以降は五本以上は倒せるようになっていた。
ほどほどの重さのボールを両手で抱え、レーンを這わせるように投げる。おれの放ったボールがレーンのど真ん中を突き抜けた。乾いた音がして、ピンが砕け散るように倒れた。
「上手いじゃん」
背後の声――遠山が目を丸くしていた。「すげえ、すげえ」――間を置かずに連中がおれを囃し立てる。おれは何も言わず、微笑してテーブルの方に戻っていく。
こいつらは普通に親に育てられることすら出来ていないんだ。だから、ボウリングでストライクを取ることすらできない、模索しない。出来ないというより知らないのだ。だから、ガーターレーンにボールを投げ続けることしかせず、ストライクを取るコツを覚えない。
こいつらは壊れている。
哀れさが込み上げた――恵まれているにもかかわらず虚ろな自分の人生を呪った。
康司と呼ばれている少年がボールを投げる。無造作に伸びている髪に目が行く。ボールは手前で僅かにバウンドし、すぐガーターレーンに落ちる。力が入りすぎている――見つめながらおれは思った。他の奴らもかなりの頻度でガーターレーンにボールを突っ込んでいる。不意に没入感が消え失せた。途端に不安になり、おれは慌ててスマートフォンをポケットから取り出した。
スマートフォンのデジタル表示――七時半。時間が経ちすぎている。
「もう七時過ぎてるから、今日はとりあえず帰る。ごめん」
「あ、そう」
「また、来てもいい?」
「別に良いよ」
榮倉は自分の鞄からペットボトルを取り出した。
「今日はありがとう。じゃあな」
「あ、あのさ」
ボウリングをやっている最中、ずっと考えていたこと――LINEを交換して欲しい。全身が緊張に硬直する。おれはクラスメイトのLINEを持っていなかった。それどころか、クラスのLINEグループにすら入っていない。クラスメイトの口ぶりからして、クラスLINEに入っていないのはおれだけだった。
いじめや嫌がらせをされているわけでは無い。化学科におれに対して冷たく接してくる奴は一人もいなかった。ただ、おれがつまらないのだ。無難な発言しかしない、いるのかもわからない空気のような存在。そんなおれを誰も気にかけないというだけなのだ。
クラスの中でグループLINEの話が出る度に、おれは肩を強ばらせた。悪意など無いとわかっていても、肩身が狭かった。
大学に行きたいからと、おれ一人が化学科の中で大学受験をカリキュラムに入れている進学クラスを選んだ。親には高卒で働くのが不安で大学に行きたいと話した。おれはそのときも親に半分しか真実を打ち明けなかった。進学クラスに行ったもう一つの理由――友達がいなかったからだ。一人だけクラスLINEに入れなかったおれ――どうしようも無く孤独だった。進学クラスに移れば友達ができるかもしれないと考えた。
甘かった。進学クラスでもクラスLINEにおれだけ入れなかった。おれがおれである限り環境が変わろうが何も変化しないのだ。一人だけ小テストができなかった時と同じ、誰と比べても劣っているおれのままだった。
もう三年生の夏になる。今更入れて欲しいと縋れるわけも無い。
入ったところで何か会話ができるわけでもない。ただ、自分一人だけが回りと違うという事実はおれの精神を蝕んだ。静かに狂い出しそうな自分がいた。
「なに?」
「おれのLINEあるから、交換してくれん」
唇を震わせながら、おれはありったけの勇気を絞り出した。
「いいよ」
強ばっていた身体から力が抜けた。安堵感が際限なく増幅する。
「ありがとう」
榮倉がQRコードを翳す。おれがそれを液晶に納める。りょーいち――榮倉のアカウントが追加される。家族や企業以外で追加された初めてのアカウント。
榮倉以外の連中はこちらに目もくれずボウリングに没頭している。おれより惨めな人生を送らざるを得ない彼ら――後ろめたさがぶり返し、疼痛がする。それでも、おれはまたここに来るだろう。彼らと離れることを選ばないだろう。
暗い感情を抱きながらも、全身の肌が泡立っているのがわかる。ここにいるみんなは、誰もかれもがおれと同じだ。社会に適合できなくて、馬鹿にされることから逃げたくて、ここに来た。おれと同じ、センスがない人たちの集まりだ。いや、それどころかおれ以下だ。ここに来れば、おれは日頃の劣等感を抱くこともない。
体温が上がっていく。安堵、そして下劣な快感に全身が打ち震えていく。
そんな自分が気持ち悪くて死にたくなった。
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