第44話
ダメだ、この視点からのアプローチは先が見えない。視点を変えてみる。王生さんは、既に必要な情報は見せたと言った。ここで、私が持っている情報を整理してみる。
・菫さんは、6月27日の深夜2時ごろ、薬物注射によって殺された。
・菫さんは持病により自室で寝たきりであり、自ら注射を打つことすら叶わなかった。
・以上より、他殺である。
・検死の結果、毒物等による時限式の殺人では無い。
・犯行時、緋山さん宅は全員が出払っており、その時を狙った犯行と思われる。
・玄関ドアはオートロックで、解錠は指紋認証であり、誰が入室したか記録が残る。
・菫さんの死亡時刻の前後には、緋山さん宅に誰も入退室をした痕跡が無い。
・システム上の入退室記録を改竄することは困難である。
・緋山さん宅は22Fであり、玄関以外からの出入りは不可能。
・事件前日までは、燻木さんと水無瀬君が訪れ、23時過ぎに帰る日々が続いている。
・6月23日、王生さんが1時間だけ訪問している。
・事件発生時刻の前後、部屋だけでなく、マンションにすら、人の出入りは無かった。
・外部と繋がるような秘密の通路や、誰にも見つからない秘密の部屋は無い。
並べてみると、余計にこの犯罪の不可能性が際立つ。一体、どうやって菫さんを殺害したんだろう。この情報が全て真だとしたら、どう考えても不可能に思える。と言うことは、この前提条件のどこかに誤りがあるはず。それはどれだろう。やっぱり、一番目につくのは、菫さんの殺害時刻前後で、誰も入退室した痕跡が無い点だろうか。この1点が偽なだけで、この問題は途端に簡単になる。ただの不法侵入による殺害だ。だけど、システムの偽証は難しいと、あのハッカー集団を以て言われた。玄関以外からの侵入も、同じくらいに非現実的だ。例えば、緋山さん宅の上の階、23Fからロープか何かで降りて、ベランダから侵入する方法も考えてみたけれど、これはあり得ない。そもそも、普通のアパートなんかと違って、ベランダが無いからだ。アクション映画よろしく、壁伝いに窓を蹴り破って侵入するわけにもいかない。
「藍?」
やはり、あの玄関から出入りするしかない。それにも関わらず、菫さん殺害の犯行時刻の前後で、誰も出入りした形跡は無い。入る時は、極論、なんとかゴマかせる。燻木さんの仮説の一つにあったように、遥か以前から、中に潜んでいればいい。
「おーい、藍ちゃ~ん」
ただ、問題は出る時だ。出入り口は一つ。開ければ記録が残る。それにも拘わらず、菫さんの死後、警察が来るまでの間、内側から開けられた記録は残って無い。警察が沢山かけつけた時、記録は停止したけれど、そんな状態で部屋から脱出するのは一層困難だ。じゃあ、部屋から出ていない? でも、部屋の中は虱潰しに捜索されたはず。脱出するための秘密の通路や、隠れられる秘密の部屋も無い……。ダメだ、全部一度は考えた事だ。思考が堂々巡りしている。突然、視界の前でぶんぶんと手が振られた。驚いて手の持ち主を見ると、それは結衣だった。
「え、ど、どうしたの?」
「あ、よかった。やっと気づいてくれた。随分と考え込んでたんだね。いつもの癖、出てたよ。唇に指をトントンってしながら考えるの。私の好きなやつ」
そう言って無邪気に笑う結衣を見て、なんだか気恥ずかしくなった。やっぱり集中すると、どうしても癖は出てしまう。
「それにしても、凄い集中力だね。何度か呼んだのに全然気づかないし。そんなに真剣に選んでもらったなら、緋山さんも感涙ものだよ」と、由香里。
緋山さんには申し訳ないけれど、カップのことじゃない。もはや、この問題を解くのも、緋山さんのためでは無くなっていた。解きかけの謎を、最後まで解いてみたい気持ちもあるけれど、それ以上に、この不可解な殺人を犯した犯人の心理に、興味があった。恵美のアカウントの件で、結衣を問い詰めにいった時と、同じだ。
そう、不可解だ。
どうやってこの謎を作り上げたのかもそうだけど、菫さんの殺害方法も、なんだか腑に落ちない。なぜわざわざ、安楽死の手法を用いたんだろう。これから殺す相手のことなんて、どうでもいいじゃないか。殺人犯であることと、その手法から感じられる優しさに、仄かな矛盾を、私は感じていた。
私の中には、この事件を解くための、最後の可能性が残っていた。だけど、それは監視カメラの映像によって否定された。否定されたことに、安堵している自分がいた。
「じゃあ、私と由香里は別のフロア見てるから、存分にカップ選びを続けてよ」
そう言って、2人は去って行った。結衣のサラサラの黒髪が揺れる。ふと、結衣が作った、恵美の部屋を思い出す。
急に、私の中で一本の光が見えた。
結衣の部屋に取り揃えられた家具。
部屋の偽装。
見る側の誤認。
優しい殺人方法。
入退室の記録。
殺人者の不在。
全ての点が一瞬で繋がり、一つの仮説が生まれた。私が必死に考えまいとしていた、最後の可能性。それが再び、浮上してきた。
全身に鳥肌が立つ。
眩暈がした。
息苦しい。
呼吸も忘れていたみたいだ。
急いで空気を肺に送り込む。
なぜ? どうして?
答えが得られるはずの無い自問自答を、必死に繰り返す自分がいた。
「お客様、どうされましたか?」
今度は、店員が私の顔を心配そうに覗きこんでいた。
「随分と、具合が悪そうですが……」
「いえ…なんでもありません。あの、このカップをください」
私が選んだのは、これといった特徴の無い、真っ白のカップだった。
「かしこまりました。プレゼント包装はいかがしますか?」
ショーケースに映った私の顔は、とてもプレゼントを買う人とは思えなかった。不安と悲しみに暗く沈んだ顔が、ガラスには浮かんでいた。
「お願いします」
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