第38話
そう言って、燻木さんはにっこりと微笑んでくれた。やっぱり、燻木さんは良い。初めて会った時は気付かなかったけど、燻木さんの左手の薬指に、指輪がはめられていた。
「ご結婚されてるんですね」
燻木さんは思い出したように、左手の薬指を眺める。
「あぁ、いえ。実は訳あって、妻とは離れ離れでして…。本来、指輪も外すべきなのでしょうが、未練と言いますか…お恥ずかしい限りです」
しまった、聞いてはいけないことを聞いてしまったのかもしれない。この口ぶりからすると、離婚か別居かな。燻木さんみたいに分別と常識のある大人でも、奥さんと上手くいかなかったりするんだ。
「すみません、軽率でした」
燻木さんが首を横に振る。
「香月さんに非はありませんので、どうかお気になさらず。それに今は、頼れる仲間もおりますので」
水無瀬君や緋山さんのことかな。そこでふと、燻木さんの名刺を思い出した。
「そう言えば、初めて会った時、名刺に『チームClacker Jack』って書いてありましたけど、あれって燻木さんや緋山さん達のチーム名なんですか?」
「いえ、あれは単なる私個人の遊びです。そんなチーム名はありません。役職も勝手に自称しているだけで、特に決めているわけではありません」
意外と、童心も持っているみたいだった。
「そのスーツも、趣味ですか?」
「そうですね、一種のコスプレのようなものです。私達は定職についていませんからね。せめて形だけでも勤め人であろうという、私なりのこだわりです。名刺も、その一環かもしれませんね」
なるほど、そういうものなのかと、少し納得する。
「お待たせ致しました」
店員さんが注文の品を持ってくる。コーヒーの良い匂いがした。普段から家でコーヒーを淹れるようになってから、その香りには多少の違いがわかるようになってきた気がする。先入観じゃないとはまだ言い切れないけれど、やっぱり、一流のお店の香りは、一段と良く感じられた。
「それで、ご相談とは?」
ブルーマウンテンを受け皿に戻す燻木さんは、なんだか、様になっているなと感じた。
「お話ししたいことは、緋山さんの妹の、菫さんの事件についてです」
眼鏡の奥で、燻木さんの目が少し細くなる。一瞬、心臓が高鳴るのを感じた。
「実に残念な事件でした。しかも、犯人はまだ捕まっていないときている。もしや香月さんは、事件の犯人を追っているのですか?」
緋山さんからの依頼であることは伏せて、私は頷いた。
「あぁ、それはよろしくありませんね。ですが、きっと、殺人犯を追うリスクを説くなど冗長でしょう。貴女は、それを覚悟の上で調査を進めているのでしょうから」
水無瀬君に気軽にコンタクトを取ってしまった手前、少し胸に刺さる言葉だったけれども、ここは頷くことにした。
「事件当時の、この入退出記録表は本当ですか?」
例の通り、まずはこの記録表の真偽を叩き台にする。燻木さんはそれを手に取ると、一枚一枚に目を滑らせ、机の上に返した。
「ええ、真実ですね。私は毎日、朝方ごろに緋山の家へ出勤し、水無瀬君の後を追うように、24時過ぎには家を出ています。記憶力には自信がある方でして、はっきりと覚えていますよ」
やっぱり、水無瀬君から聞いた仮説が自分に効いているなと思った。どうしても、どこか警戒して見ている自分がいる。最初は、水無瀬君の仮説をぶつけてみようかと考えていたけれど、いざ直前になると、戸惑う。もしそれが真相を射抜いていた場合、犯人はどんな行動に出るかわからないからだ。まさか、こんな公共の場で、凶行に出るとは思えないけれども。
「緊張感が伝わってきますね」
不意にかけられた言葉に、顔を上げる。そこには燻木さんの、安心させてくれる笑顔があった。
「私も容疑者の一人である以上、それが正しいです。そんな貴女に、こんな言葉は白々しいだけかもしれませんが、それでも敢えて、言わせて頂きましょう。私は犯人ではありません」
なんの根拠も伴わない言葉だったけれども、私の胸の内には安堵が広がった。と同時に、水無瀬君の言葉を思い出す。
『多分、この仮説はハズれますし』
『絶対に、どこかに誤りがあると信じています』
それが後押しとなって、私は、水無瀬君の仮説を燻木さんに聞いてもらうことにした。本人に否定してもらいたい一心で。犯人を捜しているはずなのに、貴重な仮説がハズれて欲しいだなんて、どこか矛盾しているなと思った。
燻木さんは水無瀬君の仮説を、腕を組んで片手を顎の下に添えながら、時々「ほう」「なるほど」と相槌を打って聞いてくれた。一通り話し終えると、燻木さんはブルーマウンテンを優雅に一口飲んで。こう言った。
「水無瀬君の仮説は面白いですね。ですが、残念ながらと言うべきか、その仮説は成り立ちません」
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