第36話

 私の考えが甘かった。今更、後悔が津波のように押し寄せてきても、もう遅い。肺はとっくに限界を迎えているけれど、休むわけにはいかない。後ろから聞こえるクラスメートの断末魔が、足を止めれば次にこうなるのはお前だと知らしめてくる。

 私のせいだ。私が、大勢いれば安心だと思って、みんなを巻き込んでしまったんだ。結局、犠牲者を増やしただけだったじゃないか。まさかあの男の正体が、こんな異常者だったなんて。

 走り続ける私の前に現れたのは、無慈悲にも鍵のかかったドアだった。廊下を振り返ると、暗闇の中に、彼のシルエットが浮かび上がってくる。その顔には、初めて会った時と同じく、紳士的な笑顔が張り付いている。だけどその時は、スーツは真っ赤に染まってなんかいなかったし、血が滴るナイフも持っていなかった。彼は手にべっとりとついた返り血を、ワックスの代わりに使って、オールバックを整えながら私に歩み寄る。怖気が走った。全神経が早く逃げろと急き立てる。

 一体、どこからがいけなかったのだろう。元から、彼は怪しいと思っていたんだ。クラスメートも一緒だからって、彼の屋敷なんかに足を運ばなければ良かった。違う、今はそんなことはどうでもいい。一秒でも早く目の前のドアをこじ開けなきゃいけないのに、どうしてそんなどうでもいいことが頭を巡るんだろう。一種の現実逃避かもしれない。わずかな望みをかけて、ドアノブを一心不乱に引いていると、肩にポンと手を置かれた。自分がこんなにも大きな悲鳴をあげることが出来るなんて、初めて知った。

「大丈夫です。すぐに気持ちよくなります。痛いのは、最初だけ」

 背中越しに聞こえたその優しい声に、寒気がした。怖くて振り向けない。背中に激痛が走った。背中から内臓まで届く、今までに感じたことの無いほどの苦痛と異物感。私の悲鳴は絶叫に変わり、屋敷を包んだ。地面をのた打ち回る私を見下ろす、彼の目だけが暗闇に浮かんで見える。次に、彼の真っ赤な口が開いて、こう告げた。

 

『次は~、原宿~原宿~』

 

 駅のアナウンスで我に返る。私は読んでいた文庫本を乱暴に畳み、ホームに降りると、すぐにゴミ箱を探した。分別なんて今はどうでもいい気分だった。私はビンカンのゴミ箱に、その小説を捻じ込んだ。冷静になった頃に罪悪感が押し寄せてくる。あの本の作者には申し訳ない。作者は悪くない。ただ、あの描写は、私にはダメなんだ。思い出しちゃいけないものを、思い出しそうになるから。

 改札をすぐ出たところに、燻木さんが立っていた。180cmは超えてると思う。長身だから一目でわかる。トレンチコートの下には、今日も高そうなスーツを着ているのかな。ビシっと決まったオールバックに、理知的な眼鏡も相変わらずだった。

「すみません。お待たせしちゃいましたね」

 燻木さんは、私の方を振り向くと、笑顔でこう答える。

「いえいえ。私も、ほんの数分前に来たところです」

 例え1時間前に待っていても、この人ならそう言って安心させてくれそうな気がした。

「えっと、この間はお世話になりました。お蔭様で、助かりました」

 一瞬、なんのことかと考えたのか、間を挟んでから思い出したように燻木さんは答えた。

「あぁ、いえいえ。どうかお気になさらず。あれは、緋山からの依頼に応じただけですので、つまりはビジネスです。緋山からの報酬も、いただいていますしね。しかし、背景は存じませんが、貴女の助けになれたのなら何よりです」

 燻木さんは再び笑顔を向けてくれた。やっぱり、どう見ても燻木さんが犯人とは思えないし、思いたくない。だけど、そんな考えは切り離さなければと、自分に言い聞かせる。

 水無瀬君の時もそうだったけど、燻木さんにも報酬を払ってたんだ。いくらだったんだろう。気になるけど、金額を聞くなんて不躾かなと思い、やめておいた。

 私のために手間やリスクをかけてくれただけでなく、出費まであったとなると、改めて緋山さんに申し訳ないなという感情が湧いてきた。そんなことを伝えたとしても、緋山さんならきっとこう返すだろうけど。

『僕が好き勝手にやったことだから、藍が恩に着る必要はないよ』

 水無瀬君も燻木さんも緋山さんも、タイプは全然違うけど、なんだかんだで似てるところがあるなと思った。もう一人の仕事仲間という、王生さんはどんな人なんだろう。犯人捜しの意味では勿論だけど、個人的な好奇心からも、王生さんに会ってみたいなと、呑気なことを私は考えていた。

「では、さっそくですが移動しましょうか。こんな人混みで立ち話はよろしくありません。特にリクエストが無ければ、ご案内したいお店があります」

 少し躊躇したけれど、人目がある限りは大丈夫かと思い、了承することにした。もしも怪しい雰囲気になったら、すぐに逃げよう。水無瀬君の時は、少し迂闊すぎたなと反省する。私は、殺人犯を追っているんだ。いくら顔見知り相手だったからと言って、その自覚があまりにも足りなさ過ぎた。

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