第35話

 水無瀬君の顔を見ると、先ほどまでの険しい表情は消え、一仕事を終えたような、すっきりとした顔をしていた。思い出したように、少し冷めているであろうブラックコーヒーに手を伸ばしたけれど、一口飲むと、やはり顔をしかめた。

「水無瀬君は、なんとも思わないの?」

「何がですか?」

「燻木さんが犯人かもしれないってわかって」

「いえ…別に…。だって、まだ仮説の話をしてるだけですし」

 それに、と続ける。

「そもそも僕は、菫さんを殺した犯人が誰であろうと、そいつの事なんかどうだっていいです。興味がありません」

「え……本気で言ってるの? 菫さんと仲が良かったんでしょう?」

「だって、月並みなセリフですけど、犯人が捕まろうが死刑になろうが、もう菫さんは帰って来ませんし…」水無瀬君の傷らだけの顔が、目に見えて悲しみに染まる。「だったら、そんな奴に怒ったり頭を使う分だけ、損じゃないですか」

 それは、よく聞く理屈ではあるけれど、あくまで理屈だ。人間は、理屈通りには割り切れない。だけど、割り切れる人間が世の中にいてもおかしくない。水無瀬君は、きっとその一人なんだろう。なんだか、彼の機械のような一面を見た気がした。

「でも……犯人は、燻木さんかも知れないんだよ? さすがに、気になったりしないの?」

 水無瀬君は眉をひそめる。考えているみたいだ。少しした後、彼は口を開いた。

「すみません…想像してみましたけど、やっぱりどうでもいいです」水無瀬君は申し訳なさそうに続けた。「だって、燻木さんが菫さんを殺したのは、あくまで2人の間の問題じゃないですか。きっと、殺すに至る何かがあったのでしょう。僕が割って入る事でも、詮索する事でもありません」

「水無瀬君も、もしかしたら殺されちゃうかも」

「殺されるようなことをすれば、そうなりますね」

「何もしなくたって、人を殺すような人なのかも」

「それを言ったら、香月さんや緋山さんだって、実はそういう人かもしれないじゃないですか」

 ミルクティーの入ったカップを、お皿の上に戻した。強めに戻したせいで、中身がこぼれそうなほど、波打ってしまった。

「そんなわけないじゃない」

 水無瀬君が少し、怯えた表情になる。そんなに怖い顔をしてしまったのかな。

「あ、いえ…例え話ですよ、勿論。すみません…怒らせちゃったみたいで」

 水無瀬君は手元のグラスに手を伸ばし、水を一口飲む。喉がかわいてないのに水を飲むのは、気まずい時についやってしまう所作だ。

「えっと…僕が言いたかったのはですね、事の背景も理由も何もわかってないのに、人殺しの事実だけで、ガラリと接し方を変えるのはまだ早いと思う…ってことです。そりゃ、燻木さんが見境の無い快楽殺人鬼だったとしたら、流石に二度と近寄りません。まだ死にたくはないですから。でも何か、仕方のない理由や、正統な理由があったのかもしれません」

「正当な人殺しなんて、無いよ」

「本当にそうでしょうか?」

 そう問われて、ぱっと思いついたのは、復讐だった。あるいは、正当防衛。でも、それにしたって、人殺しが正当化されることなんて、あってはいけないと思う。その一線を越えてしまった人は、もう、住む世界が違うんだ。水無瀬君の言わんとしてることも、わからないわけじゃなかったけれど、だからと言って割り切れるものじゃない。ところで、と水無瀬君の声が聞こえた。

「燻木さんが犯人の前提で話していますが、多分、僕の仮説はハズれます」

 そうだ、仮説の話をしてたんだ。燻木さんが犯人かもしれないと。

「どうして? 完璧に思えたけど…」

「だって、僕らが見ている情報は、実はほんの氷山の一角かもしれないし、前提からして間違ってるかもしれないからです。何より、僕らエンジニアは、自分が紡いだ仮説(コード)が一発で通るなんて、微塵も思ってません。人が作ったものは、絶対にどこかに誤りがあると信じています。だからこそ、ハックも成り立つわけです」

 なるほど、そういうものなんだ。だけど、私はまだ、燻木さんへの不安を拭い去れてはいなかった。元々、3分の1の確率で殺人犯かもしれないのに、水無瀬君の推理が合わさることで、更に不安は強まっていた。どうしよう。今度、燻木さんとも会う約束を取り付けているのに…。そんな私の胸中を知ってか知らずか、水無瀬君はカップに口をつけると、引きつった笑顔でこう言った。

「このコーヒー、美味しいですね」

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