第30話
それは、6月23日。
この日も燻木さんと水無瀬君は来ておらず、代わりに、初めて見る来訪者の名前があった。
「この、王…生…? なんて読むんでしょう。この日の来訪者はこの人だけなんですね。朝に来て、すぐに帰ったようですけど」
「王生(いくるみ) 紳(しん)。最初に話した、当時の仕事仲間の3人目だよ。彼の指紋はその日に登録したんだけど、結局、その後で使うことは無かったな。ちなみに、僕が彼に直接会ったのも、その時が初めてだった」
「初めて会ったって…どうやって知り合ったんですか?」
「ありとあらゆるシステムは、常に世界中のクラッカーから無差別に攻撃を受けてる。僕は、攻撃してきたクラッカーを自動的に逆探知して、反撃を食らわすダミーサーバをネット上にいくつか浮かばせてるんだけど、その一つがある日、攻略された。それをやったのが、王生だった。それが悔しくて、以来、彼とはネット上で追いかけっこしてたんだけど、いつの間にか仲良くなっちゃってたんだよ」
なんか、楽しそうだな…と思ってしまった。改めて住んでる世界の違いを教えられた気がした。これで当時、この家に入退室自由だった3人が出揃ったことになる。今更ながら、ここで一つの不安がよぎる。
「緋山さん、もしかしてこの3人って…」
「大丈夫、もうこの家には入れないよ。今は指紋登録を解除してるからね」
良かった。この3人が容疑者なのに、今もこの家に出入り自由だったら、またも引っ越さないといけないところだった。
「緋山さんが外泊した夜に菫さんが亡くなっていたことから、普通に考えて、犯人はその不在時を狙ったみたいですね。緋山さんがその日に外泊することを知っていた人は、誰がいたんですか?」
「当時の仕事仲間の3人全員が知っていたよ。僕が事前に連絡してたからね。それ以外の人物には、伝えていない」
聞いてはみたものの、教えたのが3人だからと言って、3人しか知り得ない情報にはならないな、と思った。例えば、3人のうちの誰かに共犯者がいた場合、情報はいくらでも共有できる。他にも、盗聴器を仕掛けたりで、情報は収集できる。だから、現時点ではあくまで、参考程度に留めておいた。
「菫さんの死因は薬物の静脈注射って言ってましたけど、犯人はどうやって注射したんでしょう。寝込みを襲ったとしても、針なんか射したらさすがに起きますよね」
「警察の見立てでは、脅されて刺された説が有力だった。薬物を使って、より深い眠りに落とされた説もあったけど、司法解剖の結果、その痕跡は無かった。争ったり抵抗したりした形跡も皆無だった」
どう脅されたら、薬物の注射を許すんだろう。もしかして、緋山さんに危害を加えるぞと脅されて、自己犠牲を選んだのかもしれない。なんにせよ、どうやって犯人が入退室の記録を残さずに菫さんを殺害したのかは、謎のままだ。ここで、その前提を疑ってみることにする。
「菫さんがその時間帯に、誰かに薬物を注射されて亡くなったことは確かなんですか? 遅効性の毒を事前に用いていたとしたら、侵入する必要はありません」
「その線も、司法解剖の結果で否定された」
「でしたら、何か、時限式の仕掛けで注入されたとか…」
「どんな仕掛け?」
「例えば…こう、腕に巻いて装着する感じで…」
言ってて、少し苦しいなと感じてくる。
「あぁ、それは面白いね」
意外な食いつきだった。だけど、人の殺され方の話をしているのに面白いだなんて、ちょっとどうかと思う。実の妹の話でもそのスタンスが変わらない緋山さんは、やはり特殊だと思った。
「どうだろう…仕込み針みたいな些細な仕掛けならまだしも、注射器の自動注射となると、そこそこの大きさは避けられないだろう。そんなものを装着した痕跡を一切残さないのは難しいし、何より、僕は家を出る前に菫に会ってるけど、そんな装置はどこにもなかった。勿論、帰ってきてからも」
頷くしかなかった。でも、由香里の言葉を借りるなら、可能性は片っ端から挙げていかないといけない。カフェオレを一口飲む。豆の香りと仄かな苦み、ミルクと蜂蜜の甘さが口の中に広がる。私に合わせるように、緋山さんもブラックコーヒーを口に運ぶ。カップをお皿に戻すと、緋山さんはご馳走様と言って席を立った。
「もう、いいかな」
「え?」
「質問は他にない?」
「あ、えぇ、多分……とりあえず、頭と情報を整理する時間が欲しいです」
それを聞くと、緋山さんはコーヒーを一気に飲み干した。
「じゃあ、僕はもう寝るから。また何か気になることがあったら聞いていいよ。水無瀬と燻木の連絡先も送っておくから、2人にコンタクトをとってもいい。王生のも送っておくけど、多分、彼は日本にいないかも。いつも世界中を飛び回ってるような奴だから」
そう告げて、私の返答も待たずに緋山さんは自室に消えていった。もう、この急な感じにも随分と慣れた気がする。じっくりと考えたいことは色々あったし、とりあえず、私は2人分のカップを台所に片付けた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます