第24話
部屋の外から、父の声が聞こえた。緋山さんと目を合わせると、私達は急いで父の書斎に向かう。そこには、ディスプレイに張り付いて、必死にキーボードを叩く父の姿があった。
「おや、どうされましたか?」と、緋山さん。父が勢いよく振り向く。その禿頭には、肥満気味の体から溢れ出る脂汗が滲んでいた。その有様では、高級そうなスーツも形無しだった。
「お、お前は誰だ!? お前がこいつを仕組んだのか!?」
見ると、ディスプレイには大きな髑髏マークが浮かび、電子的な笑い声をスピーカーから発していた。
「どうやら、性質の悪いウイルスに感染してしまったようですね。ご愁傷様です」
床には、緋山さんが置いた手紙が、封を切られて放り捨てられていた。それを拾い上げると、そこにはこう書かれていた。
『あなたの盗撮データは、バックアップに至るまで、全て消去しました』
「え!? この手紙を書いた時には、もう消去してたんですか? いつの間に?」
緋山さんは私の方を向いて、答える。
「藍、それはブラフだよ。想像してごらん。家に帰ると、その手紙が机の上に置かれていた。心当たりのあるお父さんは、血の気が引いただろうね。その手紙の真偽を確かめずにはいられなかったはずだ。急いでPCを立ち上げ、パスワードを入力したことだろう。僕が刺したUSBに組み込んだプログラムは、OSの起動と同時に自身をバックグラウンドで走らせ、お父さんの操作状況を逐次記憶する。お父さんがデータの安全を確認し、シャットダウンするのがトリガーだ。プログラムはそのシャットダウン命令を撤回し、記憶したデータのパスを順次巡り、その配下のデータを全て削除してまわる。盗撮以外のデータもあったかもしれないけれど、知ったことじゃない。案の定、外付けのHDDにバックアップを用意していたね。お父さんが接続して確認してくれたおかげで、そいつも削除することが出来た」
緋山さんが指さした先には、直方体の黒い箱のようなものが、PCに接続されていた。あれが、外付けHDDだろうか。
緋山さんの解説は、相変わらず専門用語が多くていまいちピンと来ないけど、つまり、こういうことだろうか。一通の手紙から、父本人にデータの隠し場所を案内させ、外付けHDDという隠し金庫まで開かせた。その動きを、プログラムにずっと監視させ、覚えさせ、最後にまとめてデータを全削除した。
「すごい…プログラムって、そんな事も出来るんですね…」
「もちろんだよ。人がPC上で行う操作や入力は、全てプログラムで自動化できると言っても過言じゃない。普通は、人が触れない領域にすら介入できる。そもそも、コンピュータ自体が、プログラムの塊なんだからね。一昨日、藍と焼肉を食べた後に作ったんだけど、1日もいらなかったな」
「お、お前……こんなことをして、タダで済むと思っているのか!? 人の家に不法侵入した上に、ウイルスまで仕込んで!!」
父が緋山さんを指さす。その指は、わなわなと震えていた。
「僕は、友人として藍さんに招待されただけです。そのウイルスとやらも、もう、どこにも存在しません。最後は自分自身を削除するように、書いておきましたから」
いつの間にか、ディスプレイに表示されていた髑髏マークは消え、なんの変哲もない草原の壁紙と、多数のアイコンが表示されていた。
「ふ、ふふう…お前、馬鹿か? 全てのデータを削除したなら、もう、私が盗撮したという証拠も無い。お前のしでかした罪なんて、どうとでもでっち上げることが出来るんだぞ?」
「確かに、仰る通りですね。ですが、面白いものをお聞かせしましょう」
緋山さんは、ミリタリーコートの右ポケットから細長い板状の端末を取り出すと、音声が再生された。
『お前、馬鹿か? 全てのデータを削除したなら、もう、私が盗撮したという証拠も無い。お前のしでかした罪なんて、どうとでもでっち上げることが出来るんだぞ?』
父の顔に、みるみる焦りの表情が浮かぶのがわかる。父が駆け寄ろうとするのを、緋山さんは片手をかざして制した。
「当然、この音声データは、リアルタイムで仲間のもとに転送済みです。あなたお得意の、バックアップというやつですよ」
少しの沈黙。もはや、自分が詰んでいることを悟った父は、その場に膝をついた。
「一体……なにが望みなんだ……」
父を見下ろしていた緋山さんの瞳が、私の方にスライドする。
「藍、どうしたい?」
父の懇願するような顔が、私の方を向く。父は、私の盗撮データの数々を、喜々として眺めていたのだろうか。部屋で着替える私の下着姿や、入浴時の裸や、トイレで用を足す無防備な姿を見て、自慰行為に励んでいたのだろうか。
父は、義父だ。
でも、血がつながらないとは言え、どうして、こんなにも歳の離れた義理の娘に、そんな感情を抱くことができたんだろう。狂ってる。胸に湧き上がる感情は、嫌悪、恐怖、そして、悲しみだった。
「いらない……もう…何もいらないよ……」
父を見下ろす私の目は、一体、どんな色をしていたんだろう。
「私は、ここを出ていきます。今まで、お世話になりました」
私は踵を返して、書斎を出ていく。階段、玄関、庭園、門と、次々と駆け抜ける。肌に冷たさが走る。いつの間にか、雨が降っていたみたいだ。冷雨は制服に染みこみ、私の体を突き刺し始めた。だけど、歩みを止めるつもりは無い。この冷たさが、少しでも今の気分を紛らわしてくれるなら、それも良いと思えた。街灯が、雨に濡れたコンクリートを規則正しく照らしている。
どれくらい歩いただろう。いま、どこにいるんだろう。
ふと、見覚えのあるスニーカーとジーンズが視界に入った。私を突き刺す雨は止まって、傘を叩く水音が聞こえた。私は俯いたまま、足元のスニーカーに語り掛けるように、言葉を漏らした。
「………私、養子だったんです」
ソックスに沁み込んだ雨水が気持ち悪い。
「父は義父です。中学生のころ、訳あって、両親を亡くした私を、父は引き取ってくれました」
しとしとと、町を濡らす音が周りを満たす。
「我が家のように思ってくれていいって、笑顔で迎えてくれたんです」
吐く息は白い。
「買い物にも、連れて行ってくれたりしたんです」
寒い。体が震える。寒い。
「慣れないくせに、時々、手料理も振舞ってくれて」
塗れた髪と瞳から、雫が落ちる。
「全部……あんなことの…ためだったのかな……」
目の前が暗くなった。それが、緋山さんの胸に抱きしめられたからだと理解するのに、少し時間がかかった。
「ウチ、来なよ」
この時、緋山さんの胸と言葉が、あまりにも暖かくて。私は、その言葉に頷く以外の選択肢を、持っていなかった。
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