邂逅
第18話
眼下に広がる街並みを、夕日が朱に染めている。目を凝らしてみると、ランドセルを背負って商店街を歩く下校中らしき男の子達が見える。住宅街に目を向けると、飼い犬と散歩をするオジさんが見えた。街の中にポツンと際立つ自然がある。公園だ。紅葉も残り少なく、晩秋を思わせる。ベンチには、並んで座るカップルがいた。目線を上げると、沈みゆく夕日をバックに、紅く照らされた雲々から何本もの光の筋が伸びていて、神々しかった。これが死ぬ前に見る最後の光景なのだとしたら、それも悪くないなと思った。あとほんの少し、教室で起立をするように腰を浮かせるだけで、それは実現する。
「なにしてるの?」
「きゃっ!」
びっくりして、危うく、10階下のコンクリートまで落ちるところだった。大型団地の最上階、その廊下の柵に、外側に向かって腰かけていた私は、反射的に体重を後ろに倒す。勢い余って、そのまま、廊下側に落下してしまった。背中から落ちたおかげで、少し咳き込むだけですんだ。目を開くと、真横に、私を見下ろす見知らぬ男性が立っていた。ミリタリーコートに、黒のセーター。ジーンズにスニーカー。髪はボサボサで、こういうのを塩顔と言うのかな、あまり特徴の無い顔をしている。歳は20前半くらいのようだけど、いまいちわからない。
「大丈夫?」
ポケットに手を突っ込んで私を見下ろすその視線は、言葉とは裏腹に冷ややかだ。分娩台の妊婦さんみたいな格好で地面に寝ている私の姿は、とても滑稽だった。制服のスカートは、当然のように思いっきり捲れていたので、急いで裾を抑えて中身を隠した。
「こんな所に座ってたら、危ないよ」
男の人はコンコンと、私が座っていた廊下の柵をノックする。最後にとんだ生き恥を晒してしまった。私は男の人を無視して、何事も無かったかのように立ち上がり、鞄を肩にかけ、無言でその場を去ることにした。
「もしかして、死のうとしてた?」
背後からかけられた言葉に、思わず、足を止める。
「だとしたら、なんだって言うんですか?」
肩越しに、敵意の視線を男の人に向ける。あり触れた説教や一般論を口にした瞬間、ダッシュで逃げてやるつもりだった。
「ごめんね」
予想外の謝罪に、思わず振り返ってしまう。
「何に対して、ですか?」
私は眉をひそめて聞き返した。
「自殺を、邪魔しちゃった事に対して」
と、相変わらず抑揚の無い声で、男の人は応える。
「………はぁ」
気の抜けた返事しか返せなかった。変な事を言う人だ。確かに、とんだ恥をかいたことで、私の気分はなかなかに悪かった。舌打ちをしなかっただけ、褒めてもらいたい。
「死ぬ前にさ、最後に、美味しい物でもどうかな」
「はぁ? なんですかそれ……ナンパですか?」
「そう思われても構わない」
結構です。普段の私なら、そう言って足早に帰るところだった。でも、そこで思い留まった。私には、もう、帰る場所なんて無かったから。だからなのか、この男の言葉に乗ってみてもいいかもなんて、普通じゃないことを考え始めていた。そう、私は普通じゃない。こんな場所まで来て、死の淵に立ってみるくらい、参ってしまっているのだから。
「それに、もしかしたら、君の力になれるかもしれない」
鼻で笑いそうになった。私の事を何も知らないクセに、力になれる? なんて雑なナンパ文句だろうと思った。その呆れるくらい雑なハッタリに、ノってあげるのも悪くないかなって思った。奢らせるだけ奢らせて、この男のくだらない口説き文句を全部無視して帰る。そうすれば、少しくらいは気が紛れるかもしれないって、そんなことを考えていた。すると、男はそんな私を無視するように追い越して、スタスタとエレベーターに向かって歩き始めた。
「ちょ、どこ行くんですか?」
「ん? 食事だけど」
「いや、まだ行くなんて言ってないんですけど」
「来るならついてきて。どっちにしろ、僕は行くつもりだったから。お腹、空いたしね」
それだけ残して、まるで私との出会いなんて無かったかのように、男は歩みを再開した。一体なんなんだろう、この人は。ナンパなら、もっと丁重にエスコートするものじゃないのかな。柵の向こうに目をやると、夕日はもう、落ちる寸前だった。迫りくる夜の中に、当てもなく歩みだすのが、なんだか怖いと思った。そんな心もあって、私は、気が付いたら男の背中を追いかけていた。
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