第11話

 円形に広がったエントランスは、淡い橙色の光で満たされていた。高級マンションと言うと、それだけで威圧感と緊張感が与えられるけど、色使い一つで随分と気持ちを安らかにさせてくれた。片隅には高そうなソファーが置かれている。機会が無いから未だに使用したことは無いけれど、フカフカと気持ちよさそうだ。

 ソファーの対向側には受付がある。コンシェルジュと呼ばれるスタッフが常時待機し、来客への窓口を担っていた。まるでホテルのエントランスみたいだ。目が合うと、スタッフの女性は微笑んで、軽く会釈をしてくれる。この接待には未だに慣れず、ぎこちなく会釈を返す。隣の緋山さんは一瞥もせずに、スタスタとエントランスを突っ切る。エレベーターに乗って、22Fまで一気に上がる。階を示すランプを見ていなければ、動き出していることに気付かないほど静かで、加速すらも感じさせなかった。

 ドアが開くと、エントランスのそれと比べて小さめの、台形の空間が広がる。4,5人が手をつないで輪になれば一周できる程度の広さだ。全体的に、濃いブラウンのシックな色合いが、高級感と落ち着きを同時に演出している。床にはサラサラと、ローファー越しにもその毛並みの良さが伝わるカーペット。エレベータの他に見当たるドアは一つだけ。

 それもそのはずで、この階に部屋は1室しかないからだ。噂には聞いていたけれど、1室で1フロアを占める高級マンションと言うものを、ここに居候をするようになって初めて目の当たりにした。

 本当は、自宅に帰ればほっと一息ついて肩の力が抜けるはずだけど、私は未だにこの新居に慣れない。緋山さんが、その指先をドアノブの真上に設置された端末に触れさせると、解錠の音がした。鍵の管理と持ち運びが面倒で、指紋認証式にしているらしい。玄関で靴を脱ぎ、真っすぐ伸びる廊下を進むと、左右にはゲストルームやホビールームに繋がるドアが並ぶ。更に進むと、扇形に広がったリビングが目に飛び込んできた。このマンションが巨大な円柱状だから、そのおよそ4分の1の面積がリビングと言うことになる。右手にはキッチンが備えられ、カウンター越しにダイニングテーブルが置かれている。そこから少し離れて、ソファーとTVが向かい合うように鎮座する。これが、この扇形リビングの右半分だった。左手には、バスルームやサンルームに繋がる扉。その隣には、緋山さんの部屋に繋がる扉がある。せっかく、大きな部屋がいくつもあるのに、緋山さんは一番小さい部屋を選んでいる。なんでも、適度に狭い方が落ち着くらしい。じゃあ、そもそもどうしてこんな豪邸に住んでるんだろう。扇形リビングの左半分の空間には、敢えて物が置かれていない。このリビングの弧にあたる部分は、壁一面がガラス張りで、22Fから一望できるこの絶景を邪魔しないためだった。この非日常的な住まいに私は未だ慣れず、ついつい浮足立ってしまう。

 緋山さんは椅子にコートをかけて、キッチンのコーヒーポッドにお湯を入れ始めた。

「あ、私がやりますよ」

「いや、いいよ。藍は何か飲む?」

「じゃあ、ホットミルクで」

 私は壁一面の窓際に立って、光り輝く夜景を見下ろす。キラキラと人の営みに彩られて、とても綺麗だ。特に、この時期は街がクリスマスモードになるから、イルミネーションの煌めきが増えている。でも、そのうちここからの景色にも慣れて、何も感じなくなるのかもしれない。そんなに長い間、ここに居座るとはとても思えないけど。かと言って、ここ以外のどこにも、行く当てなんて全く無かった。夜景に見惚れていると、いつの間にか隣にいた緋山さんから、ホットミルクを手渡される。

「あ、ありがとうございます」

 緋山さんも窓の外に目を向け、コーヒーに口をつける。私もホットミルクを一口飲んだ。以前、私が猫舌だと言ったことを覚えていてくれたのか、少し温めだったのが嬉しい。

「ここの生活にはもう慣れた?」

「はい、少しは慣れてきましたけど…まだまだです。未だに、この夜景にも見惚れちゃっています」

「僕は、夜景よりもここから見える朝焼けの方が好きだけどね」

「緋山さん、ここに住んでどれくらいなんですか?」

「5年くらいかな」

 と言うことは、22歳の時からこんな凄い家に住んでいることになる。プログラマってそんなに儲かるのかな。確か、妹さんを1年前に亡くしてるって言ってたから、4年間は2人暮らしだったのか。今ではその妹さんの部屋を、私が使わせてもらっているけど、遺族の方の部屋を使うのは色んな意味で気が引けた。でも、住まわせてもらっている手前、そこを使ってくれと言われたら断るわけにはいかない。

「今更ですけど、本当に妹さんの部屋を私が使っちゃっていいんですか?」

「構わない。家具なんかはそのまま残ってるけど、全部好きに変えていいよ。使わないものは捨ててもいい」

 さらっと言われたけど、やはり捨てるのは抵抗がある。買い足すだけならまだしも。そもそも、そんなに物が無い部屋だったから、捨てたいものも無い。簡素な勉強机とベッドと箪笥だけを揃えた、とても中性的な部屋だった。妹さんがそういう性格だったのかもしれない。箪笥の中の下着や洋服が女物でなければ、妹の部屋だとは信じられなかった。さすがに、そのあたりの品々はまとめてクローゼットの奥に仕舞い込んでいる。

「ホットミルク、ごちそうさまでした」

 カップを戻しに、台所に向かう。そろそろ夕食時なので、準備をしないといけない。そこでふと、思い出した。今日は学校の帰りに食材を買い足す予定だったのに、急遽、恵美の家に行くことになって、すっかりと忘れてた。冷蔵庫を開けて中身を確認すると、ろくなものが残っていない。卵に牛乳とバター、ドレッシングやソースに、後は納豆パックだった。この高級マンションに対して、余りにも質素な冷蔵庫の中身とのギャップが、なんだかおもしろかった。

「どうかした?」

「すみません、今日の食材を買って帰るの、すっかり忘れちゃってました」

「じゃあ、今夜はルームサービスを頼もうか」

 聞き間違いかな。

「えっと…いま、ルームサービスって言いました?」

「うん」

「そんなの頼めるんですか?」

「すぐ向かいに、ホテルがあるだろう? あそこと提携しているから、ホテル内のレストランに頼めるんだよ。営業時間は限られているけどね」

 緋山さんはソファの上に無造作に置いてあったタブレットを持ち上げると、数回画面をタップして、私に渡しに来た。

「それがメニューだから、好きなのを頼むといい」

「あ、ありがとうございます。緋山さんは何にしますか?」

「適当でいい。任せる」

 そう言って、自分の部屋に帰っていった。メニューに目を戻す。キャビアやフォアグラまである。食べたことが無かったので、非常に興味を引かれたけど、やっぱり人のお金で頼む以上、抵抗を感じる。緋山さんは絶対に気にしないだろうけど、少しでも安い方をと、否応なく節約の精神が働いてしまう。私の仕事である晩御飯の用意が、私のミスで流れてしまったのだから、尚更だった。この仕事も、私が自分から申し出ただけで、緋山さんにとってはどちらでもいいことかもしれないけれど。

 数分悩んだ挙句、結局、カルボナーラとサラダを2人分頼んだ。

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