第6話 私を愛して

セシリアは、来たるべき夜のために香油入りの湯に浸かっていた。体を清める際に香油を使うなんて何年ぶりだろう。自分の身をいたわったり飾ったりすることはずっと避けてきた。自分のような者がそんな贅沢をするなんて許せなかったのだ。


湯から立ち上る甘い香りが張りつめた神経をほぐす。思わず心地よさに身をゆだねたくなるが、すぐに罪悪感に置き換わった。これは、あの悪魔将軍を受け入れるためにしていることなのだ。まだ夫の安否も分からないというのに、領地の経営権を得るために他の男に抱かれようとしている。その浅ましさに心潰れる思いだった。


やがて夜のとばりが下りて、セシリアは寝所に向かった。初夜の時より緊張する。いや、初夜の時も緊張していたかもしれないが、その記憶は痛みと屈辱に塗り替えられた。クリストファーとの行為は、ただ独善的なもので相手を労わるものではなかった。セシリアは、なぜ自分がこんな扱いを受けなくてはならないのか、こんな辛いことをしなければ子供は生まれないのかと不可思議さと理不尽さに悩まされることとなった。


だから、今夜も非常に気が重い。経営権欲しさにここまでやるのかと我ながら思う。しかし、ダミアンは、どうやら約束を守る男らしい。まだ一日しか経ってないが、場内で大きな混乱は起きていない。クリストファーの部下たちも、牢に入れられてはいるが、むごい仕打ちは受けていないと聞いてほっと胸をなでおろした。


やがて、寝室の扉が開いて、セシリアは体をびくっと震わせた。寝間着に着替えたダミアンは、昼に見た時よりも胸元がはだけており、そこから戦で負ったであろう傷跡が見える。この分では、全身傷だらけなのではないだろうか。セシリアは、ここに至るまでにどれだけの修羅場をくぐってきたのだろうと思うとぞっとした。


「体の傷がそんなに珍しいか? お前の夫も軍人だったんだろう? 戦に出れば傷の一つや二つくらいどうってことない」


「あの人は戦に出ることは余りなかったわ」


それに、クリストファーと肌を重ねることは滅多になかったし、ダミアンに付いた傷は一つや二つどころではないだろうと思ったが、口には出さなかった。


「よくここに来たな。すっかり怖気づいて逃げるものとばかり思ってた」


ダミアンは、セシリアのすぐ隣に腰を下ろし、一片の髪を掬って香りを味わいながら言った。


「経営権をくれると言ったでしょう? そのためなら何でもするわ。むしろ、今の私にできることはこれくらいしかないもの」


セシリアは、緊張で身をこわばらせながら自嘲の笑いを込めて言った。


「そんなに領民に尽くすのが好きか?」


「好きと言うよりも……私はこんな形でしか還元することができない。青薔薇の加護はもう望めないから、これしかないのよ」


「青薔薇青薔薇うるせーな! そんなに花が大事か!」


ダミアンは呆れたように言うと、ベッドにごろんと寝転がった。


「ただの花じゃないわ! 青薔薇の花びらは病気や怪我を治す魔法薬の原料として使われるの! それを咲かせることができる聖女は世界に数人と言われている。私はその中の貴重な一人だったのに3年前から突然力を失った。周囲の落胆はそれは大きかったわ。人は離れ、夫には軽蔑され、両親は失意のうちに亡くなった。人生がまるっきり変わってしまった……」


セシリアはそこまで言うと、涙がこみ上げるのをぐっとこらえた。まだあの時の心の傷は癒えていない。しかし、自分は弱音を吐く資格はないと思っている。自分のせいで窮地に陥った人間が沢山いるのに、己の不幸を嘆くなんて甘い考えだ。


「ふうん。それってみんながあんたにおんぶにだっこだったってことだろう? その状況がおかしいとは思わなかったの?」


ダミアンから思わぬことを言われて、セシリアは思わず「は?」と聞き返してしまった。


「どうしてあんた一人が責任を負わなきゃいけないんだよ。いつどこで不思議な力が弱まったり消えたりするか分からないんだから、周囲はもしもの場合を考えるのが普通だ。そうでないと一人に重圧がかかってしまうからな。でも、あんたの場合は一人で責任を背負ってるじゃないか。まだ20歳そこそこなのに。どうみても変なのは周りの人間だよ。あんたじゃない」


そんなことを言う人間はダミアンが初めてだ。セシリアは、驚きを通り越して頭が真っ白になった。どう解釈すればいいのか分からない。


「え……じゃ、私はどうすればいいの?」


「別にどうもしなくていい。胸を張っていればいいんだよ」


そんなこと急に言われても……他の生き方をしたことがないセシリアには無理だ。急に考えを変えろと言われても、青薔薇の聖女以外の生き方なんて知らないのだから。


「そんなことを言って……! 私を篭絡する気でしょ! そうやって、人の心をもてあそんで——」


「そうだとして何が悪い?」


突然ダミアンが起き上って、彼の顔が接近して来た。漆黒の瞳がセシリアを捕らえる。口調は柔らかいが目は真剣そのものだ。


「今まで、言葉だけでもあんたを慰めてくれた人間はいたのか? かりそめの安心すらなく、ひたすら悪意に晒され続けたんじゃないのか? それでもあんたは裏切らないと見くびられていたんだよ。お前はダメだ、お前はダメだと言われ続けることで、自分で自分を痛めつけるように操作されて。それでいいのか? あんたはそれでいいのか!?」


セシリアは、ダミアンに見つめられたまま、身がすくんだ。心の奥底から言葉にならない感情がこみ上げて、やがてそれは涙となって両頬を伝う。もはや止めることもできず、いつの間にかしゃくり上げていた。


「分からない、何にも分からない」


「あんたはどうしたいんだ? 何をしたいんだよ!」


ダミアンがセシリアの両肩を持って強く揺さぶる。セシリアは泣きじゃくりながら叫んだ。


「みんなに嫌われたくない! 愛されたい!」


「愛してやるよ、お前を愛してやる」


ダミアンはそう言うと、唇を深く合わせてきた。そして彼女をベッドに寝かし、ゆっくりと奥深くまで分け入ったのだった。

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