第5話 欲しいのはお前だ
嵐のような一幕から一夜明け、セシリアは鏡台の前に座って、マリアに身支度をしてもらっていた。鏡に写る自分の顔は血の気を失っているが、数時間前にあのようなことがあったのだから仕方ない、いずれは落ち着きを取り戻すだろうと、揺れる自分の心に言い聞かせていた。
「セシリア様……あんまりです……あの悪魔に御身を差し出すなどと……どうしてあなたばかり……」
マリアは櫛を持つ手を震わせ、泣き出すのを必死でこらえていた。これでは本末転倒ではないか。セシリアは苦笑しながら、マリアを元気づけるように話しかけた。
「大丈夫よ。彼が求めているのは青薔薇の聖女だから、今の私を知ったら興味をなくすに違いないわ。心配してくれるのはマリアだけよ、ありがとう。こんなの、加護を失った時に比べればどうってことない」
あれは3年前、結婚して半年経った頃。突然何の前触れもなく、セシリアは青薔薇を咲かせる能力を失った。20歳を過ぎたからだとか、処女でなくなったせいだとか、当時は色々なことを言われ、著名な聖職者や有識者に見てもらったが、何一つ分からないままだ。それから間もなく、失意のまま相次いで両親が亡くなり、青薔薇の利益を失ったことで、裕福だった領地はみるみるうちに貧困にあえぐようになった。セシリアの生み出す青薔薇に依存しきっていたのだ。
しかし、自らの存在価値を疑うほど失意にあったセシリアにとって、一番堪えたのは、夫のクリストファーの裏切りだった。クリストファーは元々高名な騎士で、青薔薇の聖女の夫に相応しいと両親が見込んだ男だ。家柄もよく眉目秀麗なクリストファーと、奇跡を起こす青薔薇の聖女の結婚は、理想的なカップルの誕生だと、当時盛大に祝われた。
しかし、新婚当初からクリストファーとは馬が合わなかった。領主に就任した自分を差し置いて、セシリアが領民から慕われているのが気に入らないと、事あるごとに言われる。彼は、常に自分が注目されていないと気が済まないタイプらしく、領民は子供の頃から自分を知っているから仕方ないと説得しても納得してくれなかった。そして、セシリアが加護を失った時、激しく彼女を責め立て、役立たずの聖女と知っていたら最初から結婚しなかったと罵ったのだ。そして、妻に裏切られたのだから自分も何をしてもいいと開き直り、仕事をしなくなり、愛人を作って放蕩に明け暮れるようになった。
それでも、負い目があるセシリアは、クリストファーを責めることはできなかった。自分さえしっかりしていれば、夫も自棄になることはなかった、領地も貧しくならず、領民を困らせる事態にもならなかった。全ては自分のせいなのだ。だから、彼女ができることは何でもやった。両親が彼女に遺した私有財産を削って領地経営に回すことも厭わず、自分は質素倹約を徹底して身を飾ることすらしなかった。その結果がこれである。余りにも皮肉な運命に、むしろ笑えてくる。
「これから悪魔将軍と会って来るわ。今後の話を詰めないといけないし」
マリアは泣きそうな顔をしたが、行ってらっしゃいませとだけ言ってセシリアを送り出した。
セシリアが約束の部屋へ行くと、ダミアンは既に到着していた。鎧やマントを脱ぎ、軽装になっていたがそれでもがっしりした体躯だ。シャツがまくり上げられたところから覗く腕には、歴戦で負ったのか無数の傷跡が覗いている。
「俺たちの部下の一部は臣下としてここで雇うことにする。元からいる者はどうする?」
「昔から仕えている者については、丁重に扱って欲しいの。路頭に迷わせることはしたくないから。ただ、クリストファーの部下はここを出て行く者が出てくるかもしれない。それは彼らの好きにさせてやって」
「クリストファーの居場所を知っているかもしれないな。拷問でもかけてみるか」
「お願い! それだけはやめて! 甘いと言われるだろうけど、血が流れるところは見たくないの!」
「本当に甘いな。守らせるコストを他人に払わせ、自分だけはぬくぬくと恩恵だけを得てきた者が言いそうなことだ。生憎こっちは誰も守ってくれなかったんでね。傭兵風情がそんな認識で生き延びられると思うか?」
ダミアンに凄みのある顔で睨まれて、セシリアはひっと声が出そうになった。
「普通はクリストファーの息のかかった奴は皆殺しだ。不穏分子は一匹残らず駆除しなければならないし、どこに綻びの種があるか分からない。そっちが無血開城に同意したから一時的に温情をかけたが、こちらの気分一つでどうにでもできる。もし油断して寝首をかかれたら元も子もない。そんときゃ、あんたも無傷ではいられないがどうする?」
「……分かったわ。あなたの好きにして」
セシリアはがっくり肩を落としたまま、そう答えるしかなかった。自分が甘いのは自覚するところだ。戦場を渡り歩いて来た男にとっては、ちゃんちゃらおかしいというのが本音なのだろう。
「それと、あんた自身についてだ。夫としてもやらなきゃいけないことがある」
それを聞いたセシリアは、全身の毛がぞわっとした。それはつまり……
「あなたは私に会いに来たと言っていたわね。あれはどういう意味なの?」
「は? 文字通りの意味だが?」
「各地を転々として来たあなたがなぜ私を知っているの? 風の便りで青薔薇の聖女の存在を知ったの? でも残念ね。私は既に加護を失っているの。何も生み出す力はないのよ」
自嘲交じりにそう言うと、セシリアはダミアンを中庭に案内した。かつて青薔薇が咲き誇った四角い中庭。しかし、今は枯れた薔薇の木が放置される侘しい場所になっていた。
「ね? これで分かったでしょう? あなたは私の力目当てだったんでしょうけど、もう役立たずなのよ。何の価値もない女なの。がっかりしたでしょう? ごめんなさいね?」
さすがのダミアンもこのさびれた光景を見たら失望を隠せないだろう。そう思い彼の顔を覗き込んだが、相手は表情一つ変えなかった。
「なんだ。どこかへ連れて行かれるから何事かと思ったらそんなことか。とっくに知っていたよ。くだらん。どうでもいい」
セシリアは思わずえっと声を上げた。青薔薇の聖女の力が目的でないとしたら、どういうことなのか?
「俺はあんたに会いに来たと言っただろう? あんた自身が目当てなんだよ。青薔薇の聖女でなく、セシリアが」
突然自分の名前を呼ばれて、セシリアは全身に電流が走ったような衝撃を受けた。青薔薇の聖女でない自分? 訳が分からない。青薔薇の聖女でない自分には価値はないはずなのに、この男は一体何を言っているのだろう?
「一体それはどういう……」
「悪いが、そろそろ時間だ。これから家来と打ち合わせが入っている。とにかく今夜、寝所に来い。続きはそれからだ」
ダミアンはそれだけ言うと、忙しそうに背を向けて中庭から建物に入って行った。セシリアは彼の後ろ姿を見送りながら、訳が分からずに戸惑っていた。
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