29.沈黙はすべて【答え】

 ……。…………ああ、そうか。今回は、ここで語らなくてはならないのか。

 身体は、泥土のよう。喋ろうとすると、乾燥した粘土のように罅割れる口角。僕は……。

 僕はデスクに腰掛け、考えています。言うまでもなく、僕の「 」のことについて。写真立てに収められた僕ら「   」と「   」の姿が、霞む光のなかに浮かんでいます。

 この書斎には、僕ひとりきり。部屋を出ると、白い石造りのらせん階段に直接繋がっています。下のほうへはどんなに降りてもどこへも辿り着けません。出られないのです。上に向かうと、ほんの十数段で屋上に着きます。投光器がある、ここは灯台です。

 僕の名前はずいぶん前に失われてしまい、憶えているうちに書き起こした手帳を読み返す限りでは、トシロウと呼ばれていたようでした。

 たいそう不思議な夢を見て、なにか大切なことに気づいたはずなのに、なにも思い出せない朝のよう。

 僕はきっととんでもないことをしたのでしょう。

 それは僕の「 」に対して、それは僕自身に対して。それは、この世界の秩序に対して。

 だけどそれを打ち明けてしまったら、ほんとうに僕という存在は失われる気がするのです。僕をここに留めているものは何かを考えると、このたましいに滞留する思案と記憶のほかにないと思えるのでした。それならば、個人の内部にしか無いものを放出してしまった時、どうなるでしょう。僕と、僕以外、つまり外部の濃度が同じになって、その境界がなくなり、融けてしまう。実際を伴わないイメージや感覚の話ではなく、皮膚を隔てて区別された内と外が、意味を失くし崩壊するのです。

 この沈黙だけは守ろう。僕にできるのは〈剥き身の魂〉をこの海岸から送り出すこと、この海岸に向けた小舟に光を投げ続けること。べらべらと独り言を呟くことではないはずです。

 幸いにも「ここからならすべてが見える」と言えるし「ここからではなにも見えない」とも言える。「僕の観測した宇宙以外存在しない」と言い切ってしまってもいいだろうし「僕以外のすべての可能性が開け放たれて、もしもの世界が全方位全平行に進行している」なんて考えてみるのも楽しい。

 ああ、でもね。

 話し相手がいると分かってしまったら、もう上手く独りでいられない。取り繕えない。あなたの名は知らないけれど、そこに立って僕の言葉を待っているのは分かっているんですよ。

 うーん……何か聴きたいです?

 ああいや、質問があるかとかじゃなくて、レコード盤が何枚かあるんですよ。蓄音機もちゃんと動くし。僕はヴァイオリンの演奏が好きなんですよね。なんでか忘れちゃいましたけど。記憶、だんだん欠けてゆくみたいなんですよ。そのうち欠けていることにも気付けなくなって、気付いたら頭の中の空白が増えているから、真っ白に漂白されるという言い方が正しいのかな。

 ……なんです?

 なにを待っているんです? だから、何も言いませんってば。あなたが聴きたいような言葉は。耳にしてしまったら、あなたは気軽な「物語の旅人」ではいられなくなってしまうでしょう。

 あなたがそれを望んでるとしても、僕が手を下してあげる理由はないですから。どうして僕が、あなたの由縁になってあげないといけないんです。物語の一部になりたいってひと、けっこう居るんですけど、みんな切羽詰まっているせいか、自分のことしか考えないひとが多いんですよね。それは、まさしく僕のことでもあるのですけど。

 この灯台ではね、点と点は結んではいけないんです。点状の記憶をもつ者、物語に属さない者、そういう存在だけが滞在を許される場所だから。つまり……この会話は、物語にはならないはずなんです。意味もないし、脈絡もなくていい、話が逸れるとか長すぎるとか、そんなことも気にしなくていい。だから少し無駄話を挟みますね。

 物語というのは、巨大な生き物のようなもの、あるいは多くの部品で構成される複雑な装置、っていう考え方があって。前者だと近いものは、星ですかね。宇宙に点在する星々。あれらのような世界一つひとつを〈物語の星〉と呼びます。誰かが描いたらしい星図もあったはずなんですが、どこ行っちゃったかな……。この書斎、ぜんぜん掃除してないから。

 そう、それで、僕のようにある時空の牢から出られないような者の居るところを〈流刑地〉と呼ぶみたいです。〈流刑地〉も星の一部じゃないかと思ったりもするんですが、それ以上は知りません。なんせ他には属せないですからね。でもまあ、この灯台の周りが一面ミルク色の海で、まさしく孤島のようなところだっていうのは確かですから。それだけ分かっていればいい。

 つまりなんであなたはこんなところに居るのか? っていうのが僕の疑問なんですが。僕以外が居るなんておかしいな。〈真綿の星〉や〈宵街〉っていう、物語の滞留するところがあるらしいんですけど、そこと間違えてませんか。〈真綿の星〉なんかは、星になりきれなかった星の赤子が合体して出来上がったみたいなところらしくて……。違う? ああ、舟でここに流れ着いたわけではないんでしたっけ。

 行くあてがない? そんなことを言われても。ああ、分かりました、分かりました、こうしましょう。相生。二の輪。葡萄。峠。夕陽。箱庭。電球。メビウス。駐車場。硬鱗。エスカ。答えはこのなかから、あるいはここから連想されるものの中から見つけてください。灯台守らしく、灯りは燈したままにしていますから、自力で辿り着いてください。航海の無事を祈ります。

 ……いや、待って。僕はとんでもない勘違いをしてた。ううん、何でもありません。あなたにとてもよく似たひとに心当たりがあって。でも、別人です。あなたは生まれてきたばかりなんだから。そうか、こんな形で〈はじまり〉に気付くこともあるんだ。どおりでちっちゃくて、泣いてばかりいると思った。大丈夫、ほら歩けるでしょ。ここでは皆同じ魂の姿だから。

 すぐそこまでですけど、送りましょう。階段、あなたは降りてここから出られるはずですよ。いってらっしゃい。気をつけて。

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