27.たまには思い出してね【物語】

 目を覚ますと、ぼくらは白い砂の海から引き上げられ、おばあちゃんの家の静かな畳の部屋に寝かされていました。いや、もしかしたらおばあちゃんの家のようであって違うのかも。まだ現実に帰れていない可能性はじゅうぶんあります。ふと、羽虫が視聴覚をくすぐったかのような違和感が過ぎりました。

「思い出しておくれ」

 虫ではなく声です。またしても知らない声がなにごとか話しかけてくるのですが、耳がなにも聴きたがらず、ことばはすべて雑音に聴こえ思わず手で蠅を払うような動作をしてしまうくらいうざったい気分なのでした。

「そうとも、そうとも。思い出すのは怖かろうね。あの厄介者は再生された記憶に忍び込む。そしてすべてを掻き回す。一度侵入されたろう、だから君はもう一人の君に語らせた。彼奴は時の確かさを蔑ろにする。虚実を曖昧にして、記憶を混濁させて、物語を停滞させることで、真実を守る語り手が必要だった」

 姿の見えない相手。でも、見えなくてあたりまえかもしれません。なぜなら。

「思い出しておくれ」

 やめてほしい。言わないでほしい。思い出させないでほしい。

「すまないね。本当にすまないね。僕もこんなことはしたくないよ」

 なにか古い紙が捲られるような、やわらかい音。

「これは君の日記の冒頭だ」

 震えがとまらない。「さあ、君はなんと言った?」問われると喉がわななきます。

「セミ、セミが鳴いていないから秋なんだね」

「もっと個別の時象を思い出したほうがいいな。君しか体験しなかったこと……」

 ぼくは動けません。視界になにか動くものがあり、身構えかけましたが、割烹着を着たおばあちゃんがゆっくりとやってきて、ぼくの額を蒸しタオルで拭いてくれました。そして、なにかを促すかのように、頷きながら、ぼくの頭を撫でるのでした。ぼくは深い呼吸と冷静な自分を思い出しました。

「……割られたスイカは無かった」

【喜捨奈さんと同じような目に遭ったひとのことは何人か知っているが──簡潔に言えば、割られたスイカは無かった。】

「背広族の言葉だな。それはそうだ。彼女は最初からそういう状態だった。はじめから土人形の身体が崩れることは決まっていたんだ。彼女はそうなることが決まっていた、なぜならそれがただひとつ本当に起こったことだから」

 また「人形」という言葉。おばあちゃんには、ぼくに語りかけるこの声は聴こえないみたいでした。タオルを替えるために立ち上がるおばあちゃん。独りにしないで。そういえばおねえちゃんはどこに? 「夢だよ。これは夢だ。だから時念を操る彼奴はここに来られない、夢の中なら滅茶苦茶にされずにすむ。君と君のねえさんの実体は、……そうだな、嘘をついても仕方ない。背広姿のひとたちが回収した。でも君たちはいつも一緒だからね。学ぶのも遊ぶのも、日常のちょっとした買いものに行くのだって一緒だった。これからもだ。心配はいらないよ」

 ぼくは奇妙な身体の軽さを不思議に思いながら立ち上がりました。

「僕も嘘つきだ。君も嘘つきだ。連ねた言葉がどれほど安っぽくて、軽薄で、嫌になったとしても、みんな一回きりの現在しか生きられない。後悔から学べること、活かせることはほんのすこしかもしれない。その比重のおかしさに叫びたくなってもぐっと堪えている。明日の自分に望みをかけるしかない。でもその明日ですら、無事に迎えることは並たいていのことではない。精神と身体、人間ひとりひとつ。人形と違って換えはきかない」

 声はぼくのなかで響いていますが、もううっとうしさにも慣れました。空は曇っていて、景色はどことなく灰色に見えます。念のため雨合羽を着て、靴を履き、銀杏公園に向かいました。

「代替できる無限の可能性を求めた君たちに、唯一性の尊さを無下にした罰がくだったなどとは、僕も他の誰も考えたりしないよ。君たちのなかではそういう物語もあっていいくらいに思うかもしれないけれどね、罰を与えることが主題の物語なんてそれこそ罰当たりな考え方じゃないか。このお話も、犯人探しの物語にはならなかった。だけれどそうなるといつも思う、やはり僕は君たちを統制しているのかって」

 黄金のちいさな扇たちが、ゆらぎつつ落ちてきます。ああ、ついに季節が終わるんだな。なんとなく、いまこの時を象徴するのに、終わるという言葉がしっくりきました。

「分かるね。そう、これは終わりの景色だ。

 そう、今思い出した記憶、それだ。君たちがいちばん語りたがらないこと。僕らがいちばん隠したいこと。この独白をもって、謎多き物語の夜を語り明かしてもかまわないね? 望むならいつまででも隠し通せはするが、これを明らかにしてこの世の理に還さなくてはね、終わりたくても終われないんだ」

 ぼくは、かさかさに乾いた唇をなめました。そして、なにかを言おうとして……なんにもならず、「大丈夫だ。あとは僕が引き受ける」足元に重なり合うかさかさした葉のじゅうたんに、身を任せるように倒れ込みました。

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