21.シーズン到来【飾り】

 視界を塞ぐ大岩のように巨大なチョウチンアンコウが、ぼくらの目の前に浮かんでいました。

 教育番組の深海のいきもの特集で観た知識によれば、チョウチンアンコウはみんなメスなんだとか。そして、オスは姿がメスと違いすぎて、具体的に言うと体長が小さすぎて、いまだハッキリとその姿が分かっていないのだそうです。ただ、メスの身体には、生殖器だけを残して一体になったオスがくっついているのだと。次なる生命のため、連鎖と増殖のため、養分に対してどこまでもどん欲な深い海の生き物。

 もちろんチョウチンアンコウの目にぼくらの姿は見えていないでしょう。それでも、気付かれています。ぼくらはさながら餌に惹かれてうかつに近付いてしまった獲物。

 遠くから大野さんの、拾史郎くん! と叫んでいるらしき声。うっすらと、こちらに駆けてくるような小さな影と淡いライトの光が明滅していました。でも、遅すぎます。振り返ればギザギザと尖った歯に囲まれた無間地獄のような真っ暗闇が、もう眼前で口を開けているのです。

 その時でした。破、ではなかったけれど。飛んできたのは、事務室に置いてあるような分厚いパソコンの筐体。大きく丸みのあるチョウチンアンコウの体躯が傾いて、水中のような流れのある空間がぐわりと揺らぎました。魚類がそうした流れに逆らえないように、巨体はでんぐり返りそうになりながらぼくらの居所を見失ったようです。大きな口は何もない空間をバクンと飲みました。煽られて、ぼくらもよろけた拍子にすこしチョウチンアンコウと距離をとることができました。弛んだ妙な空間のおかげで目立った音はたちません。「よし……!」聞き覚えのある声。でも彼女は今朝方、おばあちゃんの家でまだ寝ていたはず。そういえば今はいったい、いつ何時なんでしょう。「今のうちに逃げてください!」声にせっつかれて、考え事をいったん止め、ライトで僅かに照らされた物陰に飛び込みます。どうやらこれも水槽のようですが、暗すぎて判然としません。

 激しい動きとおねえちゃんの混乱とともに、投光の方角をあちこち彷徨っていたペンライトが、ぐうぜん射手の居所を探り当てました。やはり、百々ヶ峰さんです。常に冷静な彼女も、いまは舞台上で光を浴びる舞台役者のよう。声色に滲む高揚が、それに現実みを与えていました。

「一敗を刻むとこだったね、大野くん」

「遅刻しといて“よし……!”やないやろ」

 重たそうな長靴で必死に駆けつけて、荒い息をはあはあと繰り返す大野さん。

 こんな時にはしゃぐのはちょっと恥ずかしいけれど、防水の作業着に身を包み、インベーダーと光る銃(これはぼくの見た幻でしょうね)で戦う姿と言ったら、冒険ものの映画に出てくる宇宙飛行士たちのようでした。気心の知れているらしい百々ヶ峰さんと大野さんの会話もぼくには格好良く見え、一瞬見惚れてしまいます。でもすぐに、「あの、どういうことですか」と無意識に漏れ出た自分の声が聞こえて、その逼迫さに我に返ったのでした。

「これには、事情がありまして。決してやましいことでは、いや、あるか……。でも、お客様に危害を加えるようなことはありませんから、安心してくださいね」

「加えそうになっとるのが今この状況ですけど、なんとかしますんで。とりあえず逃げましょう」

 お陀仏になったパソコンとぼくらを小脇に抱えた大野さんのタフネスによって、難を逃れた、はずでした。いつのまにか、ぼくらのほかに誰も居ません。

 ああそうだ。ここは、スーパークラガリの真の暗がり。

【そう、ここは、ここからは、お買い物に便利なスーパークラガリであって、君たちの知るスーパークラガリではない。】

「……鶴見さん、いい加減、姿を見せてくれるとありがたいんですけど……なんか、アニメとかのナレーションっていうか天の声みたいで」

【いや、そうしたいのだけどね。驚かないかい?】

「何に?」今さらじゃないですか、と思わず呆れてしまうぼく。それなら、と暗闇に浮かび上がったのは、おねえちゃんと同じ境遇となった、鶴見さんの姿なのでした。念願のスイカになれてよかったじゃないですか。いつかの仕返しをするかのように吐き捨ててしまい、ああぼくって可愛くない子ども、なのに鶴見さんはまったく堪えたようすもなく、そうなんだよ、と返す始末です。

「それとごめん。君たちと私の会話をまた他のひとの耳目から離すために、今度は暗闇のカーテンを使ったのだけど、百々ヶ峰さんたちとはぐれてしまったみたいだ」

「鶴見さんっておねえちゃんと違って役に立たない生首なんですね」

 愚にもつかない会話をした時でした。

 そよ風ほどの感触とともにおねえちゃんの頭に降ってきたのは、リボンでした。飛んできたということは、どこかから風が吹き込んでいるのでしょう。そしてこの細い赤いリボン。ギフト用の装飾なら、これのきた道を辿ればスーパークラガリの店内へと戻れるはずです。歩みかけたその時、おねえちゃんがぼくの腕のなかで全身(全頭?)に緊張性の高い力をこめたので、ぼくも立ち止まりました。「誰か居るね」呟く鶴見さん。どうやら彼の知り合いではなさそうです。

 ──このへんに、飛んでいったはず……。

 近くて遠い、奇妙な距離感。声はすぐ近くに居ると感じるのに、気配が遠いのです。目を凝らしても大野さんの時のような輪郭さえ見えません。なんだか、姿を見せないひとばかりだな。文化祭で見た出し物の、あるいはカーラジオでたまに聴く声劇みたい、そんなふうに思いました。

 ──ああ、お客様? こんなところに誰かいらっしゃるとは思わず、失礼しました。

「お店のひとですか?」

 ──ええ、はい、お気になさらず、あたしはほんの通りすがり。ゆえにこの先もあなたがたと関わりあうことはなく、仮にここで会わなかったからといって、あなたがたの人生になんら影響を及ぼすことはないでしょう。けれどもそんな些細な往来に溢れて、紛れて、見ず知らずの他人と無数にすれ違うことこそが日常の生活というもの。無意識の底に忘れて頂いて結構、あたしのことは贈答品コーナーのおばちゃんと呼んでくだすったら結構。

 語る声は暗がりから差し出された白い手の動きとともに。片手は、小さな青い薔薇の飾りを摘んでいました。

 ──大事な品物を包むリボンを拾ってくれて有難うございます。お礼といってはなんですが、かわいいお嬢さんにこのお花の飾りをプレゼントしましょうね。造花ですが、お隣のフラワーショップが贈答品コーナーのために拵えてくれたものなんですよ。そして勇敢なあなたには、これを観ていただきたいの。どこかで、見覚えはございません?

 手品のように現れた薄むらさき色の水晶玉。わずかに発光する球体のなかには、ヒトの形をした〈何か〉がありました。

「見覚えっていわれても……」

 わかりません。答えるや否や、はいそうですかとばかりに暗闇の水中空間は裂け、プールから上がる時のように重力が身体にまとわりつきました。両開きの従業員専用戸口が開けられ、そこには心配顔の百々ヶ峰さんと大野さん。振り返ってはいけないのであろう背後から、上品な高い声が響きます。

 ──ご来店の際にはぜひ贈答品コーナーにもお立ち寄りください。クリスマスにお歳暮に、贈りもののシーズン到来で、当店ではカタログもご準備してお待ちしておりますよ。

 その声もかき消されるBGMの賑やかさと照明の明るさ。帰還したスーパークラガリの店内は、すっかりクリスマスのムードに彩られていました。

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