20.鮮魚たち【たぷたぷ】

【……成程。夢は防壁。時念のがんばり時にやってくれるなァ。たしかに、再生される記憶がハナから滅茶苦茶じゃあ荒らしようもねえ。けどよ、トシロウ。正しい記憶なんてどこにある。この先ずっと混沌の夢を語るわけにもいくめえ?】


 瑞々しいような、生臭いような、独特のにおい。

 これは磯の香りだと、スーパークラガリのお魚屋さんこと、大野さんが教えてくれます。内陸県では滅多に嗅ぐことのできない海の香り。しかし、このにおいは養殖場のものであって、ほんとうの海の香りではないらしいのです。スーパーマーケットの名誉のためにと、ついでに大野さんが教えてくれたことには、岐阜県のお店で売られたり海鮮として飲食店で食べられる海のお魚たちのなかには、富山県の漁港から直送されるものもあり、木の国山の国では美味しい海鮮なんて食べられない、とはいちがいに言えないとのこと。むろん、獲れたてが最も美味しいのは言うに及ばず。まあ、それは長良川のアユだって同じだね。海のない地域のお魚屋さんだって、美味しい海鮮をお客さんがなるたけ安く買えるようがんばっているんだよ。紡がれる低く小さな声。

 さて、どうして大きな水槽を眺めながら、大野さんの話を聞くに至ったかお話しなくてはいけません。

 ゴミ捨て場近くの従業員専用出入り口から出てきた、長靴に作業着姿の大野さんは、立ち尽くすぼくに戸惑いながらも声をかけてくれて、店内では圧倒的に他人同士だったはずのぼくらは、幾らも時が経たないうちに秘密基地で目を輝かせ合う友人のようになったのです。目の周りが隈だらけで、百々ヶ峰さんと同じく声の小さな大野さんでしたが、話しているとその声に人間らしい温もりがあることが伝わってきます。

 ぼくのことは百々ヶ峰さんから聞いていて、外は寒いからと大野さんは店内に招いてくれたのですが、彼の担当は生鮮食品売り場、つまり極寒の地なのです。ぼくは雨合羽を着たままで、防寒もしてくればよかったなと思い始めていました。

「どう、今日の夕飯は魚にしたら」

 眼鏡の縁をキラリと反射させながら、ぬかりなく魚売りの本懐を果たす大野さん。ライトで照らされている生きた魚たち。煌めく丸い目玉。

「おさかなって首だけみたいなものやよね」

「うーん、でも内臓はあるし……。人間みたいに五体がないから首だけに見えるというか」

「鰭もないし、わたし、なんにもできんのやなあ」

 おねえちゃんの言葉はちょっと謎でしたが、ぼくは「そんなことないよ」と言いました。確かに言いました。おねえちゃんは、うん、とは頷けないので、気配だけでそれを肯定してくれたように思います。

 雨の音に混じって、人の声も撹拌されて、まるで多重録音された音楽のように、世界が満ちているのが分かりました。ああぼくは、もしかしたらこれを夢の中で未来視したのかもしれません。宇宙の音楽として。

【あなたのような存在を知っている。それはあなたと呼ぶべき本来の存在だ。決して、喜捨奈さんと同様の存在がたくさん居るとか、私のように数多の自己を内包しているわけではない。あなたはあなたを知るべきだろうか。君たちは君たちでなくなるべきだろうか。君たち以外の誰がそれを決めて良いものだろうか。私が判断すべきことは、私たちがどのように誤解されているかを知り、それを拭い、可能な限りフラットに、君たちにとって早すぎず遅すぎないタイミングで、選択を提示することだ──。】

 ぼくはしきりに手のひらの固いところで耳たぶを擦りました。囁かれる声がくすぐったくて、ちょっと気味が悪くて、ついでに耳がちぎれそうなほど冷えていたので、擦るといいあんばいにあたたかくなるのでした。音の奔流から突出して鼓膜に届く、声の主は明らかに鶴見さんです。居なくなったひとの声が聴こえるのが異常なのか、鶴見さんは本当は居なくなってなどいないのか。鶴見さんというひとは明らかにふつうの存在ではなかったので、ぼくらは驚きもしませんでした。ぼくにも聴こえている、というだけで、語り口はおねえちゃんに向けてのもののようです。おねえちゃんに、この声が言うことについて心当たりを尋ねると、うーん……と煮え切らない返事。

 おねえちゃんは、ちょっとダウナーなところはあるけど、言うことははっきりしている性格なので、あいまいな受け答えをするのは珍しくて、ぼくは変だなと思いました。そのおねえちゃんから、

「ねえとしくん、大野さんは?」

 と言われて周りを見、その時ようやく異変に気付きました。バックヤードは異様に暗く、お腹の底が共鳴するような静かな水音ばかりが聴こえる空間が、いっちょくせんに続いているようなのでした。さっきまで、大野さんの眼鏡がキラキラするほど照らされていたはずの水槽群も見当たりません。それに、いくらお店の裏側といえど、表の賑やかさがこうも遠いことなどあるでしょうか。

 ぼくはおねえちゃんをリュックから出して、座布団ごと抱えてあげることにしました。ここからは、ぼくらお互いに協力しないといけないような気がしたのです。リュックにキーホルダー代わりにつけていたノック式のペンライトを、おねえちゃんが咥えて前方を照らしました。わざわざおねえちゃんにしてもらわなくてもいいことかもしれません。でも、動きや音のするほうへ光の向きを変えてくれるので、さっそくおねえちゃんが居てくれて助かりました。それにほんとうを言うと、独りだとものすごく怖かったのです。ぼくらはさぐり探り、慎重に進み始めました。

 ぼくが耳を塞いでも、おねえちゃんは塞げない。おねえちゃんが目を閉じるのならば、ぼくが前を見ていなければ。

 暗がりに潜む輪郭のない影が蠢きました。


【……このおれを無視するたぁ、良い度胸じゃねえか。】

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