10.卵が割れた【来る】
(あっ)
家に帰ると、買い物袋を振り回したときに何かにぶつけたのか、パックの中で卵が割れていました。とにかく今日は疲れていて、声を上げる気力もありません。でも間違いなく、あの時──百々ヶ峰さんが乱入した時の大立ち回りが原因です。
乱闘によって頬に大きな痣を作った鶴見さんによれば、「拾史郎。指を元通りに……もっといえば、姉ちゃんの身体も元通りにする方法があるから、まずは家に帰ったら今日のことをよく思い出してみな?」とのこと。ぼくとしてはどさくさで呼び捨てにされる覚えもないし、彼がなにを企んでいるのか、詳しくはわかりません。とりあえず、今日のことを忘れろと言われても無理な話なので、鶴見さんに言われた通りに思い出すことにします。
いったいなにが起こったか。それは今日の夕方のことでした。
「この指、どういうことですか」
スーパークラガリを出て公園まで走ったために息を切らし、右手の小指を指し示したぼくの詰問に、ああそれかい、替えたよ、と黒スーツ姿の「鶴見さん」はこともなげに言いました。
「か、替えたよって」
例によって銀杏公園の遊具の近くです。黒いスーツに中折れ帽を被ったスタイリッシュなほうの彼にはやたらひとを安心させる穏やかな雰囲気があるので、ぼくも走れば逃げられるくらいには距離を保ちつつも、つい近づいてしまうのです。でも、この時に限っては、やっぱりこのひとも得体が知れない、妙なことに巻き込まれそうな予感を刺さるほどに感じて、思わず後ずさりました。
「君が興味を持っていそうだったからね。まずは小指。まったく気付かなかったろう」
「返してください!」
「返す?」
なぜ、と問う彼の口ぶりは本当に不思議そうで、心から無理だと感じました。
「その小指はもう君以外の誰のものでもない」
「ちがいます、ちがいます、ぼくの指……」
「君だった小指はもう君から離れている。切断されている。君に接続されているものだけが君だ。身体はつねに循環し作り替えられ続けているし、やがてその指も変化するだろう。だから、たとえこのまますべてを少しずつ替えていっても、君は君だ。なにも変わりはしないんだ」
そして君はすべての兄姉の弟になる。……意味不明です。こうあっけらかんと言い放たれては、うろたえるほかありません。ちがう、ちがうと心から強く抵抗しながらもうまく言葉にはならず、熱い涙が意思とは裏腹に滲み出します。
《破ァ!》
ぐしゃ。
いや、ばきっ、だったでしょうか。
えげつない音がして、慌てて目をこすると、黒スーツを砂まみれにして「鶴見さん」がぶっ倒れていました。砂煙がかすかに舞っていて、ぼくはさらにポロポロ溢れる涙を必死に止めようとシャツのえりぐりを引き上げました。
「どうぞ」
差し出される、桃の刺繍がついたハンカチ。低温でとても小さな声。思わず受け取って見上げると、思わぬ人物の登場にあっと声が出ました。
「こいつですよね、変態チラシの犯人」
「百々ヶ峰さん! ちがうんです、ちがわないけど、チラシはこのひとじゃないんです!」
「チラシ“は”、ですか」
ぼくの前に出て、足を肩幅に開き脇を締め、両の拳を肩の高さで握って空手の構えをとる、ピンクのジャージ姿の百々ヶ峰さん。──いま鶴見さんを吹っ飛ばしたのは、彼女なのでしょうか。助走もなく重しもなく女の人の生身ひとつで、ひょろいとはいえ大人の男の人を数メートルも吹き飛ばせるというのでしょうか。ふと公園の植木の向こう、面倒ごとには関わりたくないとばかりに過ぎてゆく見知らぬ人が、こちらを見遣った一瞬、親指を立て意味ありげに笑った、ような気がしました。
中折れ帽が吹き飛んで、ネクタイの歪んだ「鶴見さん」が、スイッチが切り替わったのか粗野な笑みを浮かべ「んだよ、いってぇな」と百々ヶ峰さんを睨みつけます。安心している場合じゃない。これはまずい、大変まずいです。
「やめてください!」
ツカツカと大股で接近しまだ倒れている彼の胸ぐらをひっつかむ百々ヶ峰さんを必死に引き剥がしながら、ぼくはどうしてこんな大人たちに振り回されているのだろうと悲しくなりました。
公園での騒ぎは、駐在さんこと鬼頭さんが名前のとおり鬼の形相で駆けつけたことで落着しました。おねえちゃんがリュックのなかで転げ回りながら、必死にケータイの緊急用発信ボタンを押してくれたのでした。
鶴見さんも百々ヶ峰さんも交番に連れていかれ、特に鶴見さんはこってりと搾られることになりました。公園の近くにいた人のことが気にかかりましたが、それを追求するにはぼくは疲れ過ぎていました。
百々ヶ峰さんには、未成年者を咄嗟に助けようとしたことで酌量の余地があるとされたものの、ことに子どもの目の前で暴力的解決はよろしくないと忠告がなされました。納得のいかない様子の百々ヶ峰さんがなおも「でもこの男がこの子から何か取ったとか……!」と小さく叫びかけた、その時です。「ああ──」口を開いたのは鶴見さん……だと思う、でも、下駄の彼でも黒スーツの彼でもありません。
「こりゃあ収集がつかねえなァ」
もっとはすっぱな、どすの効いた声。「ったく、さっきの野郎のせいで死にかけた、目眩がすらぁ」ぼくらが呆気に取られる間に“彼”はいつの間にか靴を脱ぎ捨て、土まみれの裸足を交番の無機質なデスクにどっかと上げて言いました。
「“星首”の話だろィ。与太話で脱線するんじゃあねえよ」
何より異質で重要だったのは、時計でした。交番の壁掛け時計が、机の置き時計が、鬼頭さんの腕時計が、聴いたことのない音を立てて、見たこともない速度で逆進していたのです。まるでプールのなかに居るように、青色に浸食される視界。空間のたわみ。そして、“彼”の額に隆起した、それこそ鬼のような、ふたつの赤いツノ……。
「──痛っ」
家に帰ると、買い物袋を振り回したときに何かにぶつけたのか、右手の小指が切れていて、さらに卵もパックの中で割れていました。とにかく今日は疲れていて、声を上げる気力すらありませんが、何というか、運もないようです。かあさんは「ええわええわ、全部オムレツにしよ」と言ってくれましたが、ぼくは内心ざわつきを抑えるのに必死でした。
あんまり暗い顔をしていたのか「そう落ち込まんでいいよ?」と続けて声をかけられます。いや、そうじゃなくて……。なんとなく自分の右手を見下ろすも、しくしくと切れたところが痛むだけで、何についてこんな気がかりなのか分からずじまいでした。
長い夜。カーテンの隙間から見える、闇の先からのびた黒い腕のような木々の枝。しっかりと閉めて、冷気を防ぎます。おねえちゃんはすでに一頭身分のふくらみをつくって、布団のなかで寝息をたてていました。
おねえちゃんの身体をさがす。それは現在のぼくの目標です。小さな何かが日々、大きな機械の部品の交換のように変わってゆくとしても、ぼくは変わりません。変わらないはず。なにも。
……変わってゆく小さな何かって、なに? 誰からそんな話を聞いたのでしょう。やっぱりなにか忘れている気がします。もしくは見逃している。ぼくは小さな部品の集合体。服の中に目に見えない虫か何かが入り込んだような感覚。小さなものが束になり、ぼくでなくなったぼくが、大きく道を逸れて自分自身を運んでゆくような。
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