9.しるし【つぎはぎ】

 図書館にある昔のマンガを読んでいると、貧しさや傷だらけの表現として、つぎはぎが描かれています。たとえば手塚治虫の『ブラック・ジャック』。主人公のブラック・ジャックや、手足や内臓がバラバラだったピノコはもちろん、時々出てくるイメージキャラクターのヒョウタンツギさえもつぎはぎだらけの存在です。ぼくは読むたびに、彼らが服じゃなく身体につぎはぎを持っていて、傷を知っているその手で人の生き死にに関わっているんだな、とすごく重たい気持ちになります。難しい話も多くて、とても全部は読めません。

 ぼくとおねえちゃんは、大きな手術とかもしたことがないし、つぎはぎの服も着たことはありません。定期的に新しい服を選ばせてもらえて、物持ちがよければあえて捨てるってことも無いけど、くたびれてきたら普通に処分します。そう、普通。おそらく、なにかが欠けている、なにかおおきなものを犠牲にして成り立っているこの生活が、普通。それがなんなのかはわかりません。まだ分からなくたって良いでしょう。分かれだなんて誰も言いませんよね。ぼくはずるいんだ。わかります。

 ふだんは、服によってコーティングができているぼくらの生活の表側。おねえちゃんは今、せいぜいマフラーを巻いたり帽子を被ったりしかできません。覆うべく身体がない、無くなった身体には傷があるかどうかも定かでありません。けれど、切り離された断面は。

 おねえちゃんは、傷ひとつない身体に戻れるでしょうか。ブラック・ジャックに訊いてみたくてたまりません。

 というより、あの変な受け皿か首輪みたいなものを外したら、傷口はどうなっているのでしょう。想像したくないけど、想像すると身体が恐怖で痺れて、もんどり打ってしまいそうです。

 ひょっとしたら、ひょっとしたらと、思ってしまう。それこそマンガの読みすぎかもしれません、でも、ぼくら全員──おねえちゃんの死体に話しかけているんじゃないか。おねえちゃんが死んでしまっているのを受け容れられずに。

 いや、そんなこと。作ったお話のほうがよほどリアルです。

「わかるぜ、知りたいけど知りたくないし、考えたくないけど考えちゃうよな」

 火曜日の昼下がり、銀杏公園のパンダの遊具に跨った鶴見さんは、そう言ってマッチで煙草に火を点けました。ふうと吐き出したりせず口と鼻から煙が漏れ出るままに空を見上げる、黒スーツの“彼”と同じ顔をした鶴見さんは、妖怪みたいに気味が悪くて、できれば話したくありませんでした。ごく自然に内心を読まれるのも良い気持ちはしません。きっとぼくは、鶴見さんが秘密にしている何かに気付いてしまった。だからこんなにも嫌でしょうがないのでしょう。

「どんぐりを拾おう」

 イチョウに生るのはギンナンだって。どうも、鶴見さんはドングリが好きみたいでした。そういえばおねえちゃんも、手があった頃はかあさんと一緒にドングリでアクセサリーを作ったりしていたなあ。あの木の実のネックレス、秋になるとおねえちゃんはよく首から下げていたものです。そういえば、あの日も、おねえちゃんはドングリのネックレスをしていなかったっけ。どこにいってしまったんだろう──。

「どんぐりを拾おう。両手いっぱいに」

 鶴見さんの独り言とともに通りまで漂ってくる煙草の臭いがやけに甘くてくらくらして考えごともできないので、足早に通り過ぎました。銀杏は黄金の時を誇って、異質なひとの影を隠します。

 

 鶴見さんを無事に無視し(ほんとに公園でなにをしてたんだろう)、スーパークラガリに入店。今日もおねえちゃんはリュックサックの中で、ぼくらは常に一緒にいます。今日は珍しく予算度外視の買い出しです。

 秋の町民運動会。持ち込みのお弁当やらお惣菜、加えておやつにジュース、大人はビールにおつまみと、食べ物だけでもけっこうな荷物がかさばります。予算度外視とはいえ、やはりお得なものを各種スーパーの価格を比較して買わねばなりません。こういうのはお祭りだとどこの家のおとうさんたちも(特にぼくらにはより一層親身な口ぶりで)言うので、そういうものなのかなとは思いますが。

「紙パックのジュースはクラガリがいちばん安いって」

「トシくん、主夫みたいやよ」

「いいやんか、別に。今から買い物じょうずになっとけば、大人になってからも困らーへん」

 つまらん、とおねえちゃんがぶうたれます。これも無視です。さて、飲み物のコーナーをひと通り見ましたが、ぼくはここで思わず立ち止まってしまいます。ほかのスーパーでは見かけたことのない、「カルシウム入り! ミルクたっぷりごくごく・ごくらく行き閻魔チョコレート」。閻魔チョコレートというのはお菓子の名称です。閻魔さまのしゃくの形を模したチョコレートで、あまり売れてないのかマイナーなお菓子だけどすごく美味しいのです。それの、世にも珍しい紙パックジュース。これは試さざるを得ない。

「買い物じょうずぅ?」

 買い物かごに放り込まれる音を聞きつけ、おねえちゃんが茶化してきます。知るか。自分だって……。思いかけて、おねえちゃんが自力で商品を取ることもできないのを思い出しました。そっと、おねえちゃんの好物のいちごミルクも入れてあげます。その時でした。

「……?」

 指先になにか、線をなぞった時のような感触がありました。細いかさぶたみたいな感じです。手のひらのなかで、かすかに掠っただけでしたが、こわごわともう一度その箇所を触ってみます。

 そして視界にかすかな違和感。その正体を探ると、自分の手に見たことのない跡があるのに気付いてしまいました。右手の小指の付け根あたり。うっすらと、でも確かに縫ったような線が入っているのです。手を裏返してみると、小指をぐるりと囲むようにその線が走っていました。「トシくん?」とおねえちゃんの呼び声にはっとして、ぼくは指を拳のなかに握り込みました。

〈すりかわり、するかい?〉

 そんな、うそだよ。うそだうそだと心で繰り返しながら、心臓はマラソンの後みたいに鳴り響いていました。

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